自分の話をします。

親が一つ違いの妹ばかり可愛がり、軽い毒親状態で育ちました。


両親どちらにも顔が似ていなく、近所の大人とかに「お姉ちゃんはどっちにも似てないね」と言われ母親が「橋の下だから(笑)」というのが鉄板ギャグ。


いつもそれを聞いて、妹を贔屓されていたから本当にもらいっ子なんじゃないかと、戸籍見られませんでした(長女とか書いてなかったらショック)


妹の授業参観は行くけど、隣のクラスの私の所には来ません。妹の持久走大会は応援に行くけど、私の卒業式は来ません。


妹は熱を出すと布団の上にご飯を持ってきてもらい、伊予柑をむいてもらえます。

私は40度の熱があっても、水飲みたかったら自分で台所に行き、ご飯ができたらダイニングに赴かなくてはいけません。

40度の熱があった時、夜中にフラフラで台所まで行ってゲロ吐いてゲロの中で「お姉ちゃんが死んじゃう助けて」と泣く妹「ゲロなんかしやがって自分で片付けろ」と怒鳴る母親、でも動かない体薄れゆく意識…という記憶があります。

(後日妹に聞くと夜中二段ベッドの2階からドスンガシャンと落ちて(その音で妹は起きた)、這って台所に向かい吐いて息絶えた(※生きてます)らしいです)


妹は1センチ刻みで靴を買ってもらえますが、私は2.3センチ置きにしか買ってもらえないので、足が変形しています。(例えば私は17.20妹は16.18.19.21.22を買ってもらえる、妹は私のを含みで1センチ刻みです)


妹はどうせ嫁に行くのだからと、宿題もやらせてもらえました。

私は山の中の「由緒ある」家を継ぐのに必要な知識、土のうを詰めたり、ユンボ使ったり(未成年ですが敷地内ですギリギリでしょう)車のオイル交換したり宿題する暇があるなら働けと言われました。

小学生からお振る舞いのお手伝いもさせられ、近所の人と付き合いをさせられました。

(祖母の葬式でわかったことですが、妹は親戚の顔もよくわかりません、兄弟が多く複雑な(従姉妹が、40歳年上だとか)田舎の親戚なので…)


小中学生の時には「もらいっ子なのに最低限の衣食住を提供してくれるからありがたい」と思って生きてきました。

徳川三代将軍に我が身を重ねてみたりしました。

もちろん、春日局も家康もいませんでしたが。


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結論、私は実子です。

上の子可愛くない症候群の未熟な母と、ADHDグレーの私の相性が悪く起きてしまったこと。


ちなみに上記出来事は妹にも悪影響で、妹はリスカ癖があった時期があります。

(お姉ちゃんが死んじゃうから助けてくださいとお願いしてるのに親が無視して寝るんだからいい影響ないわな(笑))


ADHDグレーは診断されたわけではありませんが、自分で思っているだけです。


例えば忘れ物が多かった。

メモしても確認してもダメ。すごく努力している。

でも大人には伝わらない。なんの努力もしてないように見える。

どんなに頑張っても忘れ物しちゃうから先生「来週は忘れないと約束して!」私「…(すんげー頑張ったのにまた忘れてしまった、既に手を尽くしたのだからもうどうしてもダメだ)分かりません…(正直)」先生「まーなんて生意気!来週は忘れませんといえば良いのよキーキー!ガーガー!」


友達「ぼーっとしちゃった」私「石の数数えながら電柱と電柱の距離計算しながらカエル何匹居るか声聞き分けてた」友達「…忙しいね」私「暇だよ、同じ、友達は何考えてたの?」友達「何も考えてないよ、ぼーっとしてたんだから」私「?」

(ちなみに35過ぎで初めて「これが何も考えないか!」とわかる瞬間があった)


授業は常にぼーっとしている(カラスの飛行と鳶の飛行を比べたり、雲の流れる速さで計算したり、BB弾の転がるスピードで色々したり…)

意識は教室になかったが、頻繁に立ち上がったりはしなかった。


もし、私が30年後に生まれていたらADHDグレーと診断され、投薬され、生きづらさは減ったかしら。

県下3位の高校ではなく、県下1位の高校生クイズ常連校に行けたかしら。

そもそも高回転の脳で県下3位だから、普通回転ではもっと下だったかもなとか。


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多分今は普通回転です。

だからこそ私が親に虐げられたのは「育てにくさがあったのだな」と思うのであります。

親も人だ、仕方ない。


そんな育て方したから今は入院しても必要以上にお見舞い行かない薄情な娘になりました。(今は面会制限もあって、何でもレンタルできるんです)