彼との時間を共有してきた人間はたしかに居る、ということを
記しておきたいだけ。

彼は6月末に逝きました。

とある漫画で、こんな描写がありました。「葬式で、その人の価値が
わかる」と。そのときは、「うん、たしかにそうかもなぁ」と納得しました。
でも、今はちょっと違うかな……。多くの人と交流を持ち、友達もたく
さん、たぶん異性との交際も華々しく、そういう人はたしかに魅力的
です。でも、そうではない人間もいます。


しかし、彼は独りではなかった。家族に愛され、兄や弟とは趣味の音楽
の話をし、母親はいつも彼を見守ってくれた。祖母はかわいい孫の
ために、欲しがるものを買ってあげた。祖母が与えた自動巻きの
シンプルな時計は、彼のお気に入り。骨壷の一番上に、兄が忘れず
にしまってあげた。父は厳しく当たったが、最後に涙で彼を送り
出した。

そして、俺とS。俺は本当に生まれたころからの友達、と言っても
過言でないくらい、彼とは幼少時から付き合いがありました。それは
今にして思えば、最大の幸運だったのかも知れません。俺は、
苦労せずとも、分かり合える友人を見つけてしまったのだから。
1~6年、クラス代えはあったけど、全部同じクラス。作為的なのか?w
4年からSも加わり、それが今でも続く仲に。何回か切れそうにも、
薄くなったりもしたけど、また3種の糸は絡み合った。それは、
今後もずっと続いていくと思っていたんだけど……。


もう1カ月半。月日が経つのは早いものです。こうして、彼との
思い出が少ない人たちは、やがて彼のことも忘れて行くのでしょう。
でも、家族以外でも、俺とSは忘れないね。忘れようがない。
忘れる努力をしても、無理。それは余りにも、僕らの思い出に
絡みついているから。一本の糸だけ解く、という工程は存在しない。
誰もかれもが忘れようが、俺らは死ぬまで“血よりも濃いもの”で
繋がって行くはず。きっと……。


世間的に見れば、凡人。でも、俺らは奴の天才的な才能を知っている。
多くの人に悲しまれなくても、俺らは言い様のない、表現しようのない
“何か”に襲われた。いや、襲われている。Sは仕事の忙しさで、
なんとかきばっている。俺は、ちょうど何も出来ない時間が重なり、
本当に苦しかった。「人生とは、これほどに苦しいものなのか」と
何度も絶望した。ただ、俺はしぶといからね。会えるのは当分先だね。
(と言っておく)

多くの人に涙されずとも、ただの数人でも、心の底から惜しむ人間が
居る。彼が存在した理由は、確かにあります。



結論。

葬儀では人の価値なんて測れないようです。少なくとも、僕はそう
感じました。