義父がこの世を去った。 

大きな存在だったので、
予想をこえて、とてもさみしい。 

破天荒で、
昭和、あばれはっちゃくの父のような、ちゃぶ台ひっくり返すような男って、本当にいるんだと度肝抜かれた。 

結婚当初は、
酒癖悪く、いい年こいて流血沙汰になる父子に頭を抱え、
とんでもない家に入ってしまったと思ったものだ。 

義父というある一定の距離を持ってみると、独自の美学やスタイル、個性といえたが、 

夫にしてみれば、すべての源流であり脅威、とても重たい存在だった。 

何をするにしても、
義父の存在が影を落とした。 

家族間で関わらないという選択は当時の私にはなかったので(今はどっちでもいい)、スパルタな嫁のせいで、
ことあるごとに会って衝突することは夫も義父も嫌だったかもしれない。 

でも、思い出の数は増やせたかな。 

理不尽だと食ってかかったことも一度や二度ではない。 

怒らないで〜と言いつつ、話の最後は、

あいつ(息子)は幸せなやつだなと笑いながら言った。 

心配性すぎで、口出されたことも多いが、真心からものを言ってくれているのがわかった。 

不器用すぎるふたりだったが、
いつも長男である夫の心配ばかりすることで、不安定な一時代を逆に子に支えてもらっていたのだと理解した。

数奇で、波乱万丈な身の上の父。
そして、その影響を受けた夫。

なんというか、
ストンとした家族のカタチがあったもいいのではないか、
孫であり子の顔を見せてあげたいなと思った。 

が、そう簡単に迎えることができず、複雑な戸籍を辿れるだけ辿り、家系図を作り、ご先祖詣りをしたりした。 

安産祈願は、縁の深い雑司ヶ谷の鬼子母神に導かれ、
少しずついろいろな援護が入り、
本当に命がけでこの世に迎えることになった。 

孫一色のカレンダーを手作りし、
私がストレスケアカウンセラーの資格をとる際には、
両親で子守に来てくれて、
水玉のバッテンの抱っこ紐で膝を小刻みに曲げ、なにやら歌いながらあやしている姿は、今でも鮮明に目に浮かぶ。 

デザイン会社の経営者で家をあける日も多かった父。

自分の子の時はそんな体験は多くはなかっただろうから、

孫に関するあれこれって、なんと絶妙な距離感だろうか。 

その人の本質を、
自然に浮き上がらせる。 

涙雨

びっくりするくらい冷たい雨を数日に渡り降らせて、
おとうさんがいたずら顔でニヤリとしていそうなお別れの日。 

坊は、いつもと変わらず元気に走り回り、
覚えたてのひらがなで 

「すき」

とひとこと手紙を書き、
棺に入れ、窮屈な空間を圧倒的に広げていた。 

息を引き取る前日
感謝を伝え合い、楽しかった〜と
本人も深々と言っているのを聞けて本当によかった。 

インド他海外をひとり旅したり、
オシャレでセンスがよかったおとうさん。 

飲み仲間も言ってたけど、
あの世でも、豪快に遊んで。

先にいっているうちの母もよろしく。 

おかあさんを大切に
家族仲良く、元気に繋いでいきます。 

ありがとうございました。