法学論考 ミネルヴァの飛翔  各論5-4 | アルマンのブログ

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ミネルヴァの飛翔 
                          ~テーミスの剣の研磨に寄せて~           村 山 武 俊

各論 5-4

国際法について
 
 

(3) 国際法の規律対象 

 

 ところで国際法の規律の対象は国家に限られるのか、あるいは個人に対しても適用されるのかという問題が国際法学では重要な論点になっています。これについては上述しました国際法の種類と、一般法学を併せて考察しなければなりません。まず世界法が制定されるならば、これは国家と個人の双方に適用されることは明白であります。しかもここで世界法は個人の私的な権利や行為についても当然適用されるのです。なぜなら世界法は国際社会に適用される法でありますが、それは統治作用に基づくものですから、その原理は一般の国内法と少しも変わらないからです。 

 次いで普遍法も同じく国家にも個人にも適用されます。というのはこの法は最優先で適用される衡平法を表現したものでありますから、相手が如何なる者であっても、また如何なる法カテゴリーに属する法規であってもその効力を主張できるからであります。 

 そうなりますと残された問題は、国家間の合意によって制定される狭義の国際法の適用範囲についてです。この場合、国家は統治作用によって国際法を制定するのではなく、その管理権限の行使の結果として法規を定立するのです。ということはまず、国家の管理権とは全然関係のない純然たる私的領域には狭義の国際法は一切関知しないということが言えるのであります。この意味で合意国際規範は公法であると一応は言えます。しかし前にも何度か述べましたように、公法と私法という区分と統治法と管理法という区分は全然別のもであります。したがって管理法であることは即公法であることを意味しませんから、すべての合意国際法が公法でもあると速断することはできません。 

 一方合意国際法の制定権限を有するのは元首だけでありますから、元首の権限が及ばない事項についてこの法が制定されることはありません。元首というものは立法権と司法権の統合機関として創出された地位でありますから、その権限は国家機構の内部に限定されざるを得ないでしょう。そうなりますと結局、狭義の国際法は国家に属する権限に関する事項についてのみ定められるのですから、それは公法でしかないと言わざるを得ません。正確に言えば、狭義の国際法は公的管理法の一種であります。つまり狭義の国際法はそれが合意規範であることから管理法に属し、元首が制定権限を有することから公法とされるのです。これは法学の普通の用語で言えば国際公法という範疇に入れられることになるでしょう。 

 以上に述べたことにより、狭義の国際法は国家が管理権を有する事項についてのみ適用されることから、個人にそれが及ぶとすれば、その管理権を職務として行う者に対してだけです。これは公務員その他法令の定めによって公務に従事する者に限られることは疑う余地がありません。ここで言う公務員とは、通常の場合国家公務員のことを意味するのですが、地方公務員であっても地方政府が中央集権制によって国家に統合されている場合、または法律の定めによって国家の職務を代行するものとされている場合には、彼の行為にも直接国際法が適用されます。 

 また私的権利に関する私人の行為であっても、財産が国有化されることによって、その活動が国家の管理活動と見做されている国では、私人の財産活動の大部分に国際法が及ぶことになります。(重要な財産が国有化されている国では、企業が外国人と経済的取引契約を締結する場合にも条約の形式が取られることになるでしょう。)前述しましたように国際法は国家の権限のカテゴリーを指定する法規でありました。そして以上の考察を踏まえますと、この権限とは管理権限であることが判明します。 

 そうなりますと管理権からは直接強制の作用が、統治権からは間接強制の作用が導かれることになります。間接強制の作用とは命令作用に他ならず、刑罰や賠償という形式で実行されますから、結局狭義の国際法からは命令作用たる刑罰や賠償請求は出てこないことになります。この場合、国際法の規範に実効性を持たせるには、直接強制に頼ることになりますが、それでも不十分な場合には国内法で処罰規定を設けることになるでしょう。 

 (法の一般原理で述べたことですが、管理権は合意秩序の中で授権法体系に位置付けられます。これは強制秩序たる命令法体系とは異なる法系であります。しかし授権法の結果が実現されない場合には直接強制が発動されることになり、これは強制秩序に移行することになります。ここで授権法と命令法、管理権と統治権が交錯します。) 

 刑法的に言えば、犯罪の構成要件たる違法または有責類型に属する行為の指定部分については国際法でそれを定め、これに対して刑罰を科す効果部分の規定を国内法に委ねることになります。(現に多くの条約において、それの違反に対する刑罰の制定を批准国に要請しているのは、この法律構造に由来するのです。)なお直接強制たる妨害排除等の実行形式については管理権限に当然付随するものですから、国際法によってこれを全部規定することも可能です。(国際法において強制措置の予定あるいはカタログのようなものが指定され、国内法でこれに実効性のある領域的公権力の行使手続を定めるのが今日の国際的強制措置の実行形式です。ここでは国際法が立法で国内法が行政的執行という委任命令的関係と類似のものが見られますが、これは法律とその執行命令といった国内法の概念とは全く異なることに注意しなければなりません。) 

 ところで公務員は国家の権限に属する事項についてそれを法規の定めに従って執行する一般的責務を有します。つまり公務員については、国家の管理権限に属することでこのカテゴリーを指定する法規がたとえ国際法であったとしても、それを理由にしてこの責務が免除されることはありません。したがって公務員の地位に伴って、その職責に属する事項の遂行について、有責類型たる身分犯が犯罪として定められるのでありますが、これが国際法によってカテゴリーを指定された管理権限の不行使を構成要件としている場合、それに対する処罰については国際法も直接規定できると解すべきであります。なぜなら公務員は義務を定める法規が適法に制定されたものである以上、その法規の種類を問わずこれを遵守すべきことを承諾しているのでありますから、ここには契約違反に伴う制裁のように、当該承認に基づいて処罰が科されると考えられるからであります。 

 そうなりますと、統治作用を含まない狭義の国際法であっても、補充的に処罰規定を制定できると考えるのが妥当でありましょう。ただこの場合、国内法に別の処罰規定が定められたときはそれが優先することは言うまでもありません。したがって例えば、職業軍人が捕虜を虐待したり、戦時に捕獲した禁制品等を横領した場合には、当該軍人の本国法がそれについて沈黙しているとき、これらの行為を禁止する条約で違反行為に対する刑罰その他の制裁を直接定めることが可能となります。 

 以上に述べました原理は、法令の定めまたは契約によって国家の管理業務に従事する私人に対しても適用されます。ただこの従事が強制徴用に基づくものであって、それを行う者の承諾を全く欠いている場合には、管理職務全体が統治権の行使に服することになりますので、管理違反についての処罰は全面的に国内法の管轄領域に属することになります。したがって例えば、戦時における違法行為が徴兵された兵士によって国外でなされたとき、それが上官の命令によるものであったり、または兵士の属する国の法規により適法とされる職務遂行に伴って発生したときは、行為のなされた国の国内法が、またそれが職務外の行為であるときは兵士の本国法も重畳的に適用されることになります。 

 尤も国際法違反の処罰についてそれを国内法に委ねた場合、違反行為がなされた地の属する国の国内法を優先的に適用すべきだとの論理が出てくることになります。その一方で、そのような結果を認めるならば、ある国が他国の行為を裁くことになり、主権国家の相互独立性に反するという論理も成り立ちます。ここには国内犯と国外犯の処罰規定の競合のようなことが起こるのでありますから、これを解消する抵触法を定めなければなりません。そして現在においてはこの抵触法の定立は多国間条約によるしかないでしょう。したがって国際法違反の処罰について国内法が全面的に管轄するという主張は無条件には維持できないのです。 

 なお狭義の国際法である二国間条約が規律できる対象は公的管理権限のカテゴリー指定だけでした。そのためこれによって私権のカテゴリー指定はできないのであります。例えばある国の国民が外国人や外国政府から不法行為をなされた場合のその賠償請求権についてその不法行為国との条約でこれを消滅させることはできません。 

 そのような条約は当然無効とするか、あるいはその存在は一応認めつつも、これを国内法のレベルで原初的に再考し、その成立事情や内容を厳密に審査することが必要となるでしょう。外国に対する私権の放棄の代償として放棄国が何らかの対価なり代償措置を受けている場合、これを私権放棄の補償として活用させる手段が存在するからです。これが可能であれば、私権放棄条約を当然無効とするのではなく、補償措置を放棄国の立法や司法を通して実現させる方法も模索すべきでしょう。 

 

 以上に考察したところにより、狭義の国際法が個人にも適用されるのかという問題については、ある国家の管理権に属する事項について、職務としてそれを遂行することを承諾した個人に対しては直接適用されるという結論を出すことができます。なお前述しましたように、国際法の中には大多数の国が制定に関与することから、世界法的性質を帯びたものが定立されることがあります。この場合には、統治作用をある程度含むことになりますので、間接強制たる命令や処罰もより広く国際法に盛り込むことができます。 

 その範囲は国家の活動に参加した者の行為全般に拡張するのが妥当でありましょう。したがって徴用やボランティアであっても、ある国家の対外的活動に関係した者は、その非個人的業務遂行について生じた違法または有責の行為について、世界法的国際法の規定によって処罰されるのです。 

 このことは20世紀末から急速に整備された国際刑事裁判所(ICC)に見ることができます。これは慣習または成文で制定されてきた戦争に伴う犯罪行為、ジェノサイドや人道に対する罪のような犯罪類型を個別の国家による処罰のみに委ねることなく、組織された国際法廷で弾劾するものです。ここでは国際司法裁判所とは異なって訴追から判決に至る手続過程で領域国家や国際機関による付託や承認は一切不要で、国内法の刑事裁判と同等の強制措置によって展開されます。 

 この裁判所の構成原理はここで述べた世界法的国際法の即時適用の要請に由来します。ここで画期的なのは国家元首やその他の最高指導者が個人として処罰されることが積極的に想定され、また実際にその適用例が積み上げられつつあるところでしょう。 この裁判所の設立についてはまだ合意国際法の枠内にあるためそれを承認しない国もありますが、将来の世界司法裁判所の先駆形態となるものですから、速やかに全世界に拡充浸透させるべきでしょう。 

 ところで上述しましたように、狭義の国際法たる合意国際法は、国家の公的管理権のカテゴリーを指定することを基本的な目的としています。そしてこの法については元首が制定権を持っているのでありました。ということは元首とは、論理的に言えば、国家の管理権について最終的な権限と責任を有していなければならないということになります。現在の法学の通説では、国家の管理権は行政権とほとんど区別されていません。そしてこれはまた法の執行権ともはっきり区別されていないのであって、渾然たる包括的権力たる行政権として把握されているのです。 

 このような非学問的な認識が未だに大手を振って歩いているので、国家の主要な権限が行政権の名の元に強化されるという奇妙な事態が起こっているのです。しかしながら反面では、この権力の統合体が強大であるが故に、ほとんどの国家において、これは元首が首長として統括しているのであります。そのために、元首が制定する国際法が公的管理法であるということと図らずも一致するのであります。 

 (ところで日本国憲法第60条第2項及び第61条の規定によれば、条約と予算は同じ要件で国会の承認を受けることになっています。これは憲法が両者共に公的管理法に属することを無意識の内に洞察しているものと解されるのであります。そして統治法である法律の議決については、第59条によってより厳格な手続が定められているのは、それが国会本来の権限に属するからであります。これに対して予算法の制定や合意国際法である条約の承認は元首の権限に属せしめられているのでありますから、国会の関与が緩和されているのであります。) 

 なお国際法は元首の権限に属せしめられている事項について規定することができるのでありますから、それが統治権の一部を授与せられている場合、その権限については国内法の規定のみが及ぶことになります。したがって元首が法律の執行命令を制定できるとか、恩赦などの形で司法権の一部を行使するといった権限は国際法によって左右することはできないのであります。 

 更に立法権や司法権のカテゴリーの指定については憲法の専権事項ということになりますから、これは具体的統治権者のみがその権限を行使します。したがって元首の制定する国際法ではこれらの権限の変動は起こらないと解すべきことになります。ただ前にも述べましたように、共同体の意思をより適切に発動せしめる分権制度を構築する場合には、具体的統治権は一層充実するだけで何等の制約も蒙ることがありませんから、それが国際法によって導入されても一向に構わないのであります。 

 具体的に言えば、立法機関の構成は原則的には憲法のみが定めるのでありますが、ただそれを特権的機関から国民により均等に選ばれた代議院の集合体に移転させるということは条約で決めてもよいのであります。また行政裁判所に司法権が全面的に吸収されているような定めが憲法にある場合でも、それを独立の司法裁判所に行使させるようにする条約はその憲法に優先します。つまりこれらの分権制度の導入に関しては、合意国際法が例外的に統治作用にも介入できることになります。 

 なお世界法の性質を有する国際法は、それ自体が統治法的性格を持ちますから、ここで述べた憲法に優先する力は一層強くなります。したがって世界法的国際法は当然に分権制度の確立について憲法に優先します。 

 

 ところで前にも述べましたように、国の併合または割譲について定めた国際法は、被吸収国の国民が吸収国において完全な内国民待遇を受けることができるときに国内法に優先する効力を持つことを明らかにしました。この国際法の定立によって吸収される国の公的管理権は吸収する国に処分され、全面的に移転することについては問題はありません。これは契約によって私権が処分されることと全く同じ原理なのです。しかしながらこの場合、統治権までも移転するのかについては俄かに断定することはできません。というのは統治権が吸収国に移転する結果として、被吸収国の統治権は併合の割合に応じて減少すると考えられるからです。例えば人口比において10倍の国に吸収された場合、被吸収国の統治権は実質的に10分の1に減価したことになります。このような統治権の重要な変更について統治権者が一切関与できないということが果たして許容されるのでしょうか。つまりこの場合、吸収を定める国際法については、それを具体的統治権者が追認することを効力要件とすべきだと考えられなくもありません。 

 しかしながらこの国際法においては内国民待遇が与えられなければならないことから、被吸収国の国民の政治的権利は個人的には変動がないのです。ということは、併合条約等で統治権が消滅するのは被吸収国民の集合体としての権限の強さだけであって、その減価は見掛けだけだとも理解できます。集合体としての権限の強さを特に問題とし、その現象に屈辱を感じ拒絶反応を示すのは、国家主義者や社会主義者または極端な民族主義者でありましょう。このような思想は、今までに何度も述べてきましたように、奴隷支配のイデオロギーにしかならないのであります。 

 したがって自由な支配を追求する者はこのような種類の権力の減少を顧慮する必要は全然ないのです。彼が注意を払わなければならないのは個人が有する参政権としての統治権の強さであります。そして完全な内国民待遇が保障されていれば、併合等があってもこの個人的参政権には変化が全然ないのですから、合意国際法によって統治権の移転が生じても差し支えないと解すべきでありましょう。そしてこの移転については具体的統治権者の追認は不要と考えられるのであります。 

 

 ところで上述しました分権制度の導入は狭義の国際法によってこれを行うことを想定したのでありましたが、世界法の性質を持つ国際法でも同じことができるのは言うまでもありません。しかしいずれの場合にも、元首による当該国際法の制定がなければ実現しないことに変わりはありません。それではもし実際に国際的に具体的統治権を発現する機関が形成され、強制的に世界法が制定されたとしたら、それの統治作用によって、元首の意思に関わりなく、分権制度を一方的にある国家に導入できるのでしょうか。 

 国内法においても統治権者は一国内部の政体を自由に決定できます。したがってそれを国際社会に拡張させた世界法も全く同じことができるのは言うまでもありません。したがって世界法の定めによって、ある領域国家の政体をどのようにでも構成できるのでありますから、当然のことながら、分権制度の強制的導入も可能であります。 

 それではこれとは反対に、専制制度を黙認したりあるいはそれを積極的に導入するようなことは可能なのでしょうか。専制制度を導入する場合でも、全面的にそれを採用するだけでなく、一部導入の意味を持つ分権制度の否定、例えば国教制度の採用、立法権または司法権を行政権に吸収すること、私権を公的権利に収用することなどはどのようになるのかということです。 

 この問題についても結局国内法の場合と同じことが言えますから、人類社会の具体的統治権者が奴隷支配者なのか自由支配者なのかによって結論が分かれるでありましょう。当然前者であれば、国際社会において領域国家が専制制度を採用することについてそれを否定することは理屈の上ではできません。しかしもし人類社会が奴隷支配者の制圧下に置かれるとなれば、彼は自己の専制体制を作るために、領域国家の存立すら許さないでありましょう。そのため全体的な専制の邪魔になる部分的な専制が否定されるという皮肉な現象が生じるのであります。 

 これとは逆に、人類社会が自由支配の理念の下に置かれたときには、領域国家が専制制度を採用したとしても、その国家の具体的統治権者が望むのであれば、これを否定することは領域国家の自治権あるいは民族自決権を侵害することになり、自由な支配の自己否定に繋がるということになります。これは自由支配が確立した国の内部では、ファシストや科学的社会主義といった全体主義者であっても、思想の自由を保障しなければならないのですから、その存在を許容しなければならないのと同じことです。 

 そのために国際社会において、多くの領域国家が国教制度の採用や私権の否定や行政国家の確立などといった専制体制を構築したとしても、自由な支配を守る世界法の制定者はそれを容認しなければならないことになります。ただこの場合、人権の本体たる個人の精神的自由権は領域国家の自治権の上位に立つことになりますから、その専制領域国家の内部においてそれまでが否認されたときは自由支配者は当該専制の容認を続けることは許されません。 

 このことは当然世界法で明言されなければなりませんが、別に普遍法の適用によって当該人権否認を不正無効とすることも可能でありましょう。但しこの場合、専制体制を採る領域国家を実力で解体するかどうかは法的理論だけでなく、様々な政治的考慮や軍事的問題が併せて検討されなければならないでしょう。 

 このことを理論的に表現すると次のようになります。ある領域国家が具体的統治権者の自由な意思の発動によって専制を含めた任意の政体を作ること、また人権の中でもその核心となる精神的自由権を除いた補助的部分の構成について、領域国家の自治権が保障され、世界法と雖もこれを侵害することができません。但し個別の統治行為において人権の侵害や圧迫があったときに、それを衡平法の発動によって無効としたり、その侵害が政体の構造によって継続的に発生する場合に、当該政体全体を無効とすることは普遍法の領域に属することなので、世界法の規定にかかわらず、これを実行することはできます。 

 

(4) 国際私法の問題 

 

 以上において、狭義の国際法の公的管理法としての性質を究明しましたが、ここで国際私法についても一言触れておく必要があります。国家の制定する実定法と並んで、私人がその与えられた私権に基づいて、それの管理または処分に関する法規を制定することができ、これが契約法とされます。この契約法は有効な私権の存在と、法を制定する者の意思決定の自由が確保されていれば、それだけで適法に成立することになります。 

 私権の存在を認めない国を除いて、ここには基本的に国家が干渉することはありません。そしてこの干渉できない国家とは契約法が制定された場所を管轄する国または制定者の本国だけでなく、独立した私権の存在を認めるすべての国のことを言うのです。ということは、配分法の一種である契約法は一旦適法に成立した以上、如何なる国においてもその効力を主張することができるのであります。 

 たとえ私権の独立性を認めない国でも、自国民が関係しないで国外において適法に成立した契約法の効力を承認しないわけにはいかないでしょう。(私権の独立性を認めない国では、それについての契約法も適法には成立しませんので、ある契約法が適法に成立したということは、このような国が関係しない場面で当該契約が締結されたことになるのです。)ということは契約法については、それ自体が普遍的効力を有するのでありますから、これに関して新たな国際法を制定する必要はありません。 

 ただ契約法と雖も国家の制定した実定法と無関係で存在することはできません。まずその契約の適法要件は、契約法に法的効力を与える原因となるものですから、契約に先立つ法によって決定されなければなりません。それは契約の成立要件を定めた一般的実定法以外にはないのであって、これが民法典と呼ばれるものです。また契約と権利は厳格に区別されるものでありますから、契約によってカテゴリーを指定される権利についても、その種類が実定法によって別に創設されるということはいくらでもあり、特に人の身分に関する権利や、物についての支配権ではこの割合は高まります。これらの場合、契約法はある国の定めた実定法と表裏一体の法規とされるのであります。 

 また契約が任意に履行されない場合に、その強制的実現を求めたり、契約の違反に対して制裁を科す場合に、公権力の発動による援助を仰がなければなりません。この場合において、公権力の発動を求める手続に関することは国家の制定法の専管事項です。また契約法が競合した場合、その内容が矛盾するときには抵触法が定められなければなりませんが、これについても国家の実定法の関与を避けることができません。 

 このように契約法がその成立、実現及び抵触の解決という場面で、国家の実定法と結合する場合、その契約が複数の国に跨っているときにどの国の実定法と繋げるのかを決定するのが国際私法であります。契約が複数の国に跨っているとはその制定者が異なる国の国民であるとか、契約によって処分される権利が契約成立地とは別の国に属するとか、外国において契約の強制実現を行うといった場合のことを言います。この結合の基準を定める概念として、「連結点」というものが考案されているのは周知の事実です。 

 国際私法で問題になる事柄は、本来は世界法たる民法の制定によって解決されなければなりません。しかしながら世界法を制定する機関はまだ現段階では存在しないので、これは各国の国内法に委ねられているのであります。そのために国際私法では統一的抵触法が定められていないのであります。これは契約の競合といった狭義の契約の抵触だけでなく、国際私法そのものの抵触があり得ることを意味しますから、連結点の抵触があった場合にも、それを解消する法規がないということになるのです。 

 例えば、ある契約がA国の法律によれば有効であっても、B国の法律では無効であるときに、当該契約の連結点になり得る要素がAB両国にあると、A国を連結点として選ぶ国とB国を連結点として選ぶ国があり得るので、どちらの国の法を利用するかによって、この契約の効力を同一に確定することができなくなります。またこの統一的抵触法がないということによって、同一の契約の実現またはそれを原因として生ずる権利の執行について、それに公権力の発動を許可する判決が抵触するということが起こります。 

 これらのことが反映して、ある契約に伴って生じた法律関係について国家の公証を求める場合に、その要件や証明力の抵触ということも起こるのです。契約はその内容の最終的実現を目的としますから、それがなされる国の法によって当該契約の効力全体を確定するのが最も合理的であります。しかし多国間契約においては、最終実現地が契約当事者にとって最適の地であるとは必ずしも言えません。また強制実現は実現地の統治法が適用されるので、契約において当事者が望む国の準拠法を指定したとしても、それが実現段階で実現国において否認される危険性があります。このようなことから、契約の成立と効力に関しては世界法による統一的な抵触法の制定が望まれるのであります。 

 この解決は立法に委ねられているので法学としては問題提起以上のことはできません。ただ国際私法の問題は、その中心に法たる契約の成立及び効力などを定める実定法との関係を追及することを抱えているのであって、「渉外的法律関係」の解決について準拠法を指定する学問であるという捉え方は厳密性を欠きます。「渉外的法津関係」ということではその内容が余りにも漠然としていますし、準拠法決定の問題を法解釈学の中に入れるということは、それが立法行為たる契約の定立によって自由に選択できるのだという重要な原理を看過させるのです。 

 (国家の制定法たる国際私法によって準拠法を決定するのは、契約による定めがない場合の補充的な制度であることが認識されなければなりません。契約による準拠法の指定が制限されるのは、その指定が衡平法に反するとか、あるいはある国の統治権を侵害するといった場合に限られるでしょう。これは契約の一般的無効原因である「公序良俗」違反の一種と考えられます。) 

 簡単に言えば、国際私法の問題とは「初めに法たる契約ありき」なのだということを理解しなければならないのです。このような認識がないと、契約の法的性質、実定法との相違、法たる契約とその強制実現との関係といったことが視野に入ってきません。これらのことは市民法の骨格を建設し、国家による全面統治の虚妄性を認識するのに不可欠な材料であって、それが自由な支配のための法学に絶対的に必要なのであります。 

 

 ところでローマ法学やトマスの自然法論では広義の自然法は絶対的自然法と相対的自然法によって構成され、前者が神の法または理性の法であって、後者は万民法(jus gentium)であるとされます。この万民法なるものは、多くの国によって形成された共通の法であるとされていますので、これまでに述べてきました国際法と深い関連を有します。そしてその内容としては私的財産制度、売買取引及び奴隷制度等があると言われています。多くの国で慣習によって形成されたものである以上、万民法は慣習国際法の一種と考えられます。そこでここに盛り込まれている内容を個別的に検討します。 

 まず財産制度の定め方は各主権国家の専権に属しますが、それが諸国で同じような内容を有するのは、支配権がその対象物の占有者に与えられるということに普遍性があるためです。また売買に関する法が共通性を持つのはそれが同一の市場に属するためです。法学的に言えば、領域国家の権限とは無関係に適法に成立した売買契約が、各領域国家を越えて普遍的効力を持つためです。 

 奴隷制度に至っては、財産の独占や戦争の結果生み出された夥しい無産者の労働力を経済的に活用する際に、それを永久固定的に同一の態様で利用し続けようという稚拙な方法に過ぎず、このようなものは、たまたま各国で同じようなものが作られたとしても、何の合理性も有しないのです。なぜなら労働力の利用の仕方にはこのような出たら目なものだけではなく、短期の雇用契約によるというより優れた方法があるからです。これによれば、被用者の自由を確保しつつその所得も保障し、その上で社会の経済的需要を満たし、且つ雇用条件の改善がなされるからです。つまり奴隷制度などというものは貧しくて暗愚な時代の愚劣な人間の考案したものであって、このような低位の共通性があったとしても、およそ自然法の範疇に入れるような代物ではないのです。 

 しかしスコラ哲学者は、このような奴隷制度も人間の原罪に対する改善教育のような有益な制度だと言って、それを神の権威によって肯定するのです。そして挙句の果てには、国家までを神の意思によって作られた秩序の牙城であると規定するのです。 

 しかし人間の原罪とはあらゆる者に等しく及んでいるのであって、国家を管理支配する者と雖もここから免れているわけではありません。そこには強大な権力によって拡大された原罪が忍びこむのです。つまり国家においては、支配者の拡大された原罪と大衆の集積された原罪が正面から向き合って中和されることによって、結果的に秩序が維持されるのであって、決して国家が神の代理機関として悪の塊である愚民を統治するのではありません。 

 このような理屈をでっち上げるのは神に取って替わろうとする悪質な奴隷支配者だけです。スコラ哲学者が国家を神聖化する最大の理由は、彼らの属する偽教会が使徒や教父を裏切ってローマ帝国と結託したためです。そしてここに地上で最も悪質な奴隷支配の擁護者である神聖ローマ帝国が出現したのであります。近代におけるこの最悪の継承者がプロイセン帝国であることについては憲法論で明らかにしたことでした。 (世界的規模で見れば、神聖ローマ帝国またはその亜流であるロシア正教会や英国国教会は奴隷支配思想の光源であり、ここから発した毒が、インドのカースト制度、中国の儒教制度といった東洋の伝統社会に巣くう奴隷制の地盤に着床して悪の華を咲かせるのであります。)