こんばんは、Heleneです虹

 

名古屋でのワークショップ。

全部のエクササイズをご一緒していたわけじゃないが、間が長いエクササイズはトレーナーでありながらも

午後の気だるい時間、寝落ちの危険性のはらんだエクササイズ😓

私もエクササイズしていたのだった。

 

過去生のリトリーバルはこんな感じだった。

リトリーバルじゃなかったけど。

 

 

恐れを探すが

なぜだか、出てきたのはインドのバラナシの火葬場。

 

怖くはないんだが?

っていうか、むしろ、また行ってみたいんだが?

 

もっと別のわかりやすいもので教えてほしいとオーダーしたら

盛り土(土葬っぽい。見たことないけど)

そこに卒塔婆が刺さっているような?

 

死と関連したなにか?

 

死は私は怖いと感じてないから、その関連のなにかなんだろうと思うが、さっぱりわからない。

 

次、手で灰をとって、パラパラしている感じのイメージ。

 

同時に、母のことが心に浮かぶ。

 

なんとなく思ったのは、生体としての姿を失って、灰とかになるということ?

それから、ガイドと話していて、これかなと思ったのが

私は死後の世界を信じているし、魂として不滅なので、いつかまた逢えるとは確信している

 

でも、また会う母は、肉体をもって、私とともに生きていた、母であった母ではないのだろう

母と、私が親子で共に生きたのは今生だけで、この関係性、この人格で共に過ごした時間は終わってしまって

二度とこない

 

現世での関わりが終わり、人との今の関わりが終わることへの悲しみ?

そして、それを前提として、いま起こっていることはこの瞬間だけだという覚悟を持って生きることへの恐れ、かもしれない。

自分の人生への責任を持つことへの恐れでもあるかもしれない。

 

グリーフ、なのかもしれない。

それは悲しく、儚く、でも、同時に愛しいものなのかもしれない。

 

これの何が、私の恐れなのか、そして、何がその源なのか?

その恐れが生まれた原点?

何が恐れなのか?

グリーフが恐れなわけではなさそう。

 

ガイドにもう一度指示を出す。

 

不意に床に片肘をついて座っている白い騎士の姿が浮かんでくる。

 

 

 

跪いている場所は、私のイメージではこの場所だった。

(イスラエルの聖墳墓教会内、キリストが埋葬のための準備がされたとされる場所)

 

自分はどこまで戦うのか?

 

自分の戦友たちは次々と死んでいった。

故郷を出発してから、長い月日が経ったが

その間に共に戦った友たちはみんな死んでしまって

自分だけが生き残った

 

生き残った自分に罪悪感のようなものを感じている

彼らが生きるべきだった

一人ひとりの人生があった

家族のあるものもあった

死という出来事によって関係が絶たれてしまったが

そんな形で関係を絶たれたくはなかった

失ったものは戻らない

 

自分が朽ちてしまえばいいのに

人の命は砂が手からこぼれるように簡単に消えていってしまう

 

生き残った自分はどう生きるのか?

自分の人生はもはや自分一人のものではなく

死んでいった友たちのものでもある

彼らの分も生きなくてはいけない

彼らの分も何かをしなくてはいけない

 

そのことから、強迫観念的に

修道僧として社会奉仕的なことする生き方を選んだ

自分は後回しで、酷使し、他人のために生きる生き方をした

滅私の人生だった

自分を痛めつけていたので、劣悪な状態で亡くなっている

 

誰かとの関係で、相手が死んでしまったりすれば、二度とそれは戻らない

だから、その時の関係を大切にしなくてはいけないという信念を持った

(それ自体は一期一会として悪いものではないのかもしれないが)

 

でも、体を壊したり、自分を殺して、相手に奉仕するような人生は本末転倒である

 

我慢しても他人との関係を続けるとか、他人のために働くとか

相手との関係でなにかうまくゆかないことをいわない、我慢する

相手を優先させるようなことをする必要はない

 

バランスを取らなくてはいけない

 

自分の心に嘘をついて、自己犠牲的に誰かのために何かをする必要はない

結局は、自分自身のために生きることが大切なのだ

 

 

 

みたいな感じだった。

リトリーバルが必要な感じではなく

 

私、自分が思ったこと、感じたこと、特に、相手に不快なことをされたときに、相手に言わない時がけっこう多い。

だから、相手は多分、私が特にそういう不快感とか違和感を感じているとは思わないんだろうな。

 

何年も前の以前、私が不愉快なことを相手に言ったことで、相手が怒ったことがあったんだけど。

その人的には、いきなり私が不愉快なことを言ったと思ったんだろうけど

実は言うと、それ以前に何度か、その人が全く無意識に、しかし、かなり失礼なことを私に言っていて

非常に不愉快に感じたにも関わらず、私はにこやかにしていたんだな。

 

多分、それで私にはそういうことを言っても大丈夫って思ったのかもしれん。

 

しかし、それが3度めになったときに、切れてね。

 

もう、これで相手との関係が確実に切れるだろうっていうのは予想はついたけど

その人が口にしたのと同じくらいの爆弾を投下して、案の定、関係が切れたことがあった。

 

多分、相手はわかってないんだろう。

 

でも、ナチュラルにそういうことを言って私が不快に感じるであろうことに気が付かないなら、多分、一生変わらないと思うから

別に個人的なつながりいらないやって思うくらいに切れてしまったのよね。

 

それまで我慢したり、仏の顔をしたり

だけど、そういう人に限って

自分の痛みには敏感だけど

他人の痛みには鈍感なんだろうなって思う

 

多分、今でも、私が悪者になっているんだろうけど

3度めだったんだよね

私がキレたのは。

 

こういう仕事をしているから、善人に思われるかもしれないし

AFCでは今まで見たことがないくらいにいい人

っていうふうに私は言われたりもしたんだけど

 

しかも、どういうわけか何人もに言われたし

エネルギーがきれいだとか言われたりもして(見えてる?)

 

は?

 

って思ったんだが

 

私は自分を善人と言った覚えはないし

むしろ、AFCで私をとにかくいい人、心がきれいな人って言った人に

 

「私のハートはどす黒いですぜ…。私ほど悪いやつはおらんよ」

 

って言ってたんだけど

私の何を見て善人と思ったのか、皆目見当がつかないし

 

なんていうの

天使や神じゃあるまいし

完璧な人間なんてありえないわけよ

 

 

だけどさ

仕事のときは、ガイドのようであろうと意識しているし

 

普段もいい人であろうとして

でも、その分、自分が嫌だなって思っていることとか、不快に感じたことに蓋をして

違和感を感じても我慢したりして

自分を押さえて、相手に合わせようとしてしまうことも多くて

 

それが負担になるときもあるのよね

 

 

母が亡くなったことがきっかけで

今生きている人間との関係って、今の人生だけで、たとえ魂が不滅だとしても

母が私の母として存在して自己をもったときは今生しかないし

私も私として生きるのは今生しかないし

って考えたら

人間関係を大切にしなきゃって思うんだけど

 

ここ数年くらいから、特にスピリチュアル業界で知り合う人との関係で

(私が誰かに教える場合だけじゃなくて、私がどこかに何かを学びに行くとか、どこかに顔を出したとか様々な局面で)

トラブルがあったり、不快な行動や発言をする人もたまにいたりして

スピリチュアル業界って、なんか、人間関係の距離が異様に、普通の人付き合いと比べて近いときが多い気がするのよ。

 

多分、相手は私に対して甘え?みたいな、これくらい言っても、やっても許してくれると思っているんだろうけど

 

多分、常識的なところで行けば、怒っていいことをぐっと我慢してしまうときもあって

それがストレスになるときもけっこうあって

 

まあ、振り返れば

自分の気持ちを大切にしないから、そのせいで

私の気持ちを大切にしてくれない人が時々来たんだろうなっていうことを意味してるんだろう

 

 

 

おんなじような課題を持っている人っているかもしれんが

自分の前に、自分のことを大切にしてくれない人が続く場合は

自分が自分を大切にしていないから、っていうことだったりするんだよ。

 

自分を認めるとか、愛するとか、大切にするっていうのは

意外となかなか簡単にはできないものかもしれない。

 

そして、他者を批判をするっていうのは。
今まで多くの人のカウンセリングの中で他者への批判、非難を聞いてきたんだけど。
結局、その批判や非難って、他者に向けているつもりで
自分自身の持っていることへの批判や非難なんだなって、いつも感じている。

 

 

他人を批判するというのは。

結局、天につばを吐くことなんだけど。

 

まあ、そんなことを思った。