こんばんは、Heleneです虹




時々、セッションなどでお会いする方の中に


◆なんのために生きているのかわからない
◆人生が辛くてしかたがない
◆楽しいということがわからない


のような悩みを持たれている方がいらっしゃいます。

いろんな理由、原因で、そのような悩みを持たれているわけなのですが。

その中には、【犠牲者(被害者)意識】に囚われているのかなと感じる方もいらっしゃいます。

もちろん、これひとつだけが人生を困難にしてしまっているわけでも、これで困難を感じているわけではない方もいらっしゃるのかもしれませんが。



非常に分かりやすくまとめた記事があったので、リンクを張っています。

英語のサイトです




時間ができて、気が向いたら要約します

実はいうと。
私が個人的に知っている方(親戚)がこの犠牲者意識を持っていて、家庭内が大変なことになっています。

簡単に説明すれば。
(十分長いけど)

その方は、現在、60代後半の女性。
子供時代に、実のお母さんを幼くして亡くし、すぐに父親が再婚したので、継母に育てられました。

その人は少し厳しかったし、家庭的に男子を大切にする家だったので。
彼女は母親からの愛情はあまり受けとることができず、厳しく育てられた上に、弟の方が大事にされる家庭環境で育ちました。

その後、結婚して、子供が生まれましたが。
その子が、成人前に挫折を経験して、おそらくそれが原因で引きこもりになってしまいました。
その時、それを隠したり、また、周囲も『精神論』で片付けようとして、こじらせてしまいました。

(人によるのかもしれませんが、ひきこもりや鬱など、周囲が『怠け者だから』とか『気合いを入れたらなんとかなるはずだ』みたいなことで対応するとこじらせてしまうというのは、知っている人も多いのではないかと思うのですが

理解がない家族や、周囲の無責任な親戚などが入ってきたりすると、こんなことをいって無理やり連れ出そうとしたり、責めたりする場合もあるので、厄介です)

問題はその後で。

引きこもりが10年以上になって、彼女はその状態が心地よくなっていて。

また、引きこもった子も、依存状態になり、共依存に。

つまり。


◆子がメンタルを病んでいて、社会的な生活ができない。可哀想。
◆自分はその子の面倒を見なくてはいけない。その子は自分なしでは生きて行けない
◆その子の面倒を見るのが大変だから、自分は自分の好きなことをすることも、自分の体や心のケアもできない
◆自分の抱える問題を見なくていい
◆自分は病んだ息子の犠牲者
◆そんな自分が可哀想
◆可哀想で、不幸な自分に同情してもらうのは当たり前
◆みんなが自分に同情してくれる。
◆大変な子を持った母親で子のために頑張っていると評価してくれる
◆みんなが優しく、親切にしてくれる
◆罪悪感を周囲に持たせて、自分の思うように操ることができる
◆子が治ると、困る


そういう状況の上、無意識かとは思うのですが、子を治らないと決めつけて、人生をコントロールしてしまっています。
結果、子の人生を破壊して、子が彼女に依存しなくては生きて行けない環境を作り上げているわけですが。

彼女にとっては、非常に視野が狭い状態になっているとも言えるのですが。
自分にだけ苦しく大変な出来事が起こり、この世は辛いだけの世界。
喜びは存在しなくて。

ただ、他人からの大変な自分に向けられる、自分を後回しにして子を思う母という評価やイメージ
子に頼られている自分
可哀想な自分にフォーカスし、そういうアイデンティティーを作り上げているわけです。

しかし、そのために更にそのような自分になるためのネガティブなエネルギーのループも産み出していて。

自分だけではなく、周囲の家族も、その状況を産み出すために、次々病んでゆく状況に。

皆が共倒れになりそうな状況。


何が原因なんでしょう?

皆さんはどう思いますか?



この親戚の方に関して、私が考えるのは。

自分の人生を生きていないから。

だと思うのです。

誰かのための人生ではなくて、自分の人生は自分のものなのです。

同じように、恋人や夫や親兄弟であっても。

そして、例え、自分が産み落とした子供であっても。
生まれでたときからその子は、自分とは違う命を持った一人の敬うべき人、なのです。

子は子の人生を好きに歩む権利があるし
親はそれを信頼して、ただ見守り、困ったときには助けるだけで良いと思う

信頼すること。

それが大切なのに、なかなかできない。


親が子から分離できずに、

子の人生=自分の人生

にしてしまうケースがしばしば見られますが。
いつかは、子は独り立ちして生きて行かなくてはいけないのです。

子離れ、親離れを、常に視野に入れてゆくのが健康的な親子関係と私は思うのです。


親子関係というのは、多くのクライアントさんの抱える問題の根底にあったりします。

30代40代50代になって、自分のことを見つめる時間ができたり、抱える問題が大きくなって手に負えなくなってきて、何とかしようと動く。

今の問題を解決しようとしているはずなのに、それを引き起こしているのが、親の価値観を自分が引き継いだせいとか、家族の求める自分であろうとして苦しくなった、何てことが多々。

でもね。
別に親を責めたいわけじゃない。

親が悪いというのではなく。
親の時代には合っていたかもしれない価値観が、今の時代には合っていないケースもあるのです。

親子関係、親の立場でも、子の立場でも、自立、というのがキーワードなのかな、と、私は思うのです。

誰かがいないと生きられないとか、誰かをいつも必要とするとか、誰かのためにいきる、のは、自分自身を大切にしていない、愛せていないから起こってくるのかな、と。


それから、自分自身というものが、自分基準で定まっているのではなく。

他者の目や、他人の評価で決まるという部分

これこそ、自分軸で生きていないということに

自分が何をしたいか
自分が何を好きなのか
自分が何に心地よさを感じるか

ではなくて

みんなが何をしてほしいか
みんなが何に価値を起き、尊ぶのか
みんなが自分をどう見て、評価するのか

それに振り回されている生き方は苦しいですし、どこかに歪みが出ます

自分の人生は自分のものであり

私たちは、生まれるときもひとり、死ぬときもひとり、なんですよ


もうひとつ。

自分と他者(人だけでなく、もの、環境、世界を包括したもの)の分離の意識が強い、というのもあるのかな、と。

私、と、他とは、断絶していて、繋がっていない。

外、周囲との関係性が途切れている。

途切れている、というよりも。
つながりを感じる力が麻痺しているのかもしれない。


マイケル・ローズさんの記事にとても美しいものがありました。
リブログしています。

苦しいなかにいる人は、なかなかこういう感覚、視点に入るのは難しいのかもしれません。

でも、そこにある自分、と、繋がっている、何か、を感じ
その小さなものに美や愛を見いだせるなら

日常が豊かになってゆくと思うのです。
生きて肉体を持つ限り、苦しみや悲しみに囚われるときはあるかもしれない。

けれども、少し目を向ければ、美しく、素晴らしいものは身近な場所に溢れている。

世界はいつでもそれを伝えている、と私は感じているのです