アイヌ民族が北海道の先住民族ではないと声高に否定する論者がいる。彼らの論拠となっているのが、人類学者S氏のDNA解析であるようだが、彼らの主張を要約すると「北海道には、和人の先祖が住んでいたが、北からやってきたアイヌ民族が彼らを虐殺して北海道に居座った。アイヌは新参者なので、北海道の先住民族ではない」ということのようだ。

 

 しかしながらS氏のDNA解析の妥当性は別として、そのアイヌ先住民族否定論者たちの主張が正しいかどうかは、考古学的、民族学的な証拠が必要である。そして、その証拠となるものは一切見つかっていない、と断言できる。

 

 そもそも否定論者たちの中には「鎌倉時代の縄文人」などという記述があるなど、そもそも日本史を理解しているのか疑わしい連中がいて、それで北海道史が理解できているはずもないだろうとも思うのだ。ここで北海道史、日本史の年表をアップしておく。

 北海道は旧石器時代から樺太(サハリン)を経由して大陸との交流が深く、多くの民族が行き来した。同じように千島列島もまた、それほど太いパイプではないにせよ、人の移動や文化の交流があった。と同時に、北海道から本州北部へと続縄文文化、擦文文化の影響が及んだこともあったのである。

 それでアイヌ文化が成立する直前の北海道と周辺を俯瞰することにする。当時、北海道に存在したのは擦文人と道東、道北の海岸部に居住したオホーツク文化人の2民族である。オホーツク文化人は鎌倉時代初期に、故地であるサハリン、アムール川下流域に戻った。それを追撃するように北海道からサハリンに渡った集団が「樺太(サハリン)アイヌ」とされている。サハリンアイヌと、元から樺太に住んでいたニブフ(ギリヤーク)とウイルタ(オロッコ)との間にあつれきが生じて、元軍(モンゴル)が介入してきたがサハリンアイヌが撃退した、ということになっている。

 

 

 このように、サハリンは動乱の地となったわけであるが、北海道はどうだったか。擦文人とオホーツク文化人の関係は対立的ではあったし、阿倍比羅夫の遠征も擦文人と連合し、オホーツク文化人と戦うものであった。安倍比羅夫の遠征後、石狩川下流域に和人勢力が植民して、擦文文化はカマドなどを備え、多少の農耕も行うなど日本式の生活様式を取り入れた文化である。とはいえ、擦文文化はあくまで北海道在地の文化であり、その担い手は「和人の先祖」などではない。

 

 さらに

①擦文人が、大量に虐殺されたという考古学的な証拠はどこにも存在しない

②擦文人が大量虐殺されたというなら、その虐殺者たちはどこから来たのか

という疑問があるのだが、否定論者たちは①②に関しては有効な説明はしていない(できない)。

オホーツク文化の骨偶

 なおオホーツク文化と擦文文化は対立的としたが、オホーツク文化は限られた海岸部を占拠していただけで擦文人と「すみわけ」されていた。平安時代末期から、オホーツク文化人は北海道を去っていくが、北海道に居残った集団と擦文人とか同化したと考えられる「トビニタイ文化」というものがオホーツク海東部沿岸に成立している。

 

 このように擦文文化の終盤に、大規模な闘争や殺戮が行われ形跡は一切ない。擦文文化が基盤となって、そのままアイヌ文化が成立した、と考える以外のシナリオは「こじつけ」:でしかないと断言できる。