■江戸城無血開城のとき携えた短剣を復刻【美術模造刀剣】 復刻 勝海舟 記念刀
1.浅利又七郎との対決
わたしは少壮のころから武芸を学んできているが、いつも心を禅の考え方のなかにおいてみようとこころがけてきた。なにかヒントを得ると、それを必ず実際に剣を持つ構えにして試してみる工夫を怠らずに今日までやってきたのである。
九歳のころ、久須美閑適斎についてはじめて剣法を学び、それから井上清虎、千葉周作や斉藤弥九郎、桃井春蔵といった人々の教えを受け、そのほか諸流の剣士と試合をしたのは何千何万回とも知れぬほど多いが、そのあいだにはいつも右のような刻苦精思の工夫をしてきたのである。
そのようにしてすでに二十年が過ぎたが、どうしてもこれでもう完全だという安心のところにはたどりつけないでいた。だからわたしは、剣の道に悟りを開いた人々を必死に探しまわったのだが、そういう人にはなかなかめぐりあえなかった。
一刀流の達人である浅利又七郎義明という人がいた。この人は奥平家の剣法師範をしていた中西子正の次男であり、伊藤一刀斎景久の剣法を正しく伝える名人であるというはなしであった。
これを聞いて喜んだわたしが試合をお願いしてみると、なるほど世間にもてはやされている剣術とはひじょうに性格の違うものであることがわかった。外にあらわれるところは柔軟だが、内に剛直なものを持っており、精神を呼吸に集中し、攻撃にかかる前に勝機をつかんでしまうのである。このような人を真の明眼の達人というべきであろうと思った。
その後、何度試合をしても、自分の力量でははるかに及ばないことを知らされたのである。修業を怠らずにつとめてはいたのだが、浅利に勝てる方法は見つからなかった。
それからというものは、昼はいろいろの人と試合をし、夜は独り坐って浅利に対決するときの呼吸を考えることがつづいたのである。眼を閉じてただ一心に呼吸を集中し、浅利に対決している場面が浮かんでくると、たちまち浅利の姿が自分の剣の前に現れる。それはまるで一つの山を相手にしているようであり、とうてい打ちかかっていくことはできないもののように感じられた。
わたしがこのように修業しているにもかかわらず、どうしても秘訣を知ることができないでいるのは、自分が生来愚鈍であるのと熱意が不足していること以外に原因はないと考えた。
■山岡鉄舟『真蹟拓本』拓本
2.滴水禅師の公案
かつてわたしは、滴水師のもとで禅理の教えを受けたことがある。
そのときわたしが、剣法と禅理とは一つのものではなかという考えをくわしく述べた。すると滴水のいうには、「おまえのいうことは正しい。しかし、自分らの考え方にしたがって遠慮のないところを批評するとすれば、現在のおまえは眼鏡を通して裳のを見ているようなものだ。たしかにレンズは透き通っているから、さほど視力を弱めることはないとはいえる。しかし、もともと肉眼になんの欠点もない人は、どんなによいレンズであろうとも、ふつう物を見るときには使う必要がないばかりか、使うことが変則であり、使わないのが自然というものなのだ。
現在のおまえは、このことを問題とするところにまで進んできている。もし眼鏡という障害物を取り去ることができるならば、たちまち望みどおりの極致に到達できるに違いない。ましておまえは、剣と禅との二つの道ともに進境いちぢるしい人物である。いったんはっきりと道のあるところを悟ったならば、殺活自在神通遊化ともいうべき境地にいたるのはわけのないことであろう」とわたしを励ましてくれ、さらに、「つまるところは無という一時に尽きる」というのであった。
以来十年、わたしはこの「無」の公案と昼も夜も取り組み続けてきたのであるが、どうしても釈然と理解することはできずにいた。
そこで再び、わたしは滴水師のもとに赴き、自分に理解できたかぎりの考えを述べたのである。
滴水はまた公案を授けてくれた。それは「両刃、矛を交えて避くるを用いず、好手還りて火裏の蓮に同じ。宛然おのずから衝天の気あり」というのであり、この公案についてよく考えてみるようにいわれた。
わたしはこの公案の文句にひどく心を惹かれるものを感じ、太帯に自分で書きつけて忘れないこころがけとし、あれこれと考えを凝らして三年の月日が過ぎた。
■【仏事用の掛け軸】「六字名号」 今泉滴水作
3.商人のはなしから悟る
ある日、わたしの書がほしいといって訪ねてきた豪商の某氏が、自分の経歴を語って聞かせてくれたなかで、ひじょうに興味深い話があった。
「世の中というものはおかしなものですなあ。自分でも不思議に思うのですが、ほんとうに貧しい家に生まれたわたしが、いまでは思いがけず巨万の財産をつくっているのでありまして、これはまったく案外のことと思えるのです。
ただし、わたしが若いころの経験のうちで、ただ一つ貴重に思っているのは、四、五百円の金ができて商品を仕入れたのはよかったのですが、なんと物価は下がり気味だという評判なのです。そこで、早く売り払ってしまいたいものだと考えていると、知人たちはわたしの弱みにつけこんで安く買い叩こうとかかるものですから、わたしの胸はドキドキしてしまい、そのために気持ちが浮足立ってしまって、ほんとうの物価の事情を知ることができないようになってしまいました。あれやこれやと迷い、すっかりうろたえてしまったのです。
そこでわたしは、すっぱりと決心を固め、どうにでもなれと放っておきました。
そのうちに、商人たちがやってきては、減価の一割高で買うというのです。今度はわたしのほうが一割高ではいやだとつっぱねたのですが、それではもう五分だけ増やそうと買値を上げてくるではありませんか。
そこで売ってしまえばよかったのですが、欲を出して、もっと高く、もっと高くと思っているうちに、最後は原価より二割以上も低い値で売るという結果になってしまいました。
わたしが商いの気合というものを知ったのは、これがはじめてのことだったわけです。思い切って大きな商売をやってやろうというときに、勝ち負けや損得にびくびくしていては、商売にならぬものだとわかったのです。つまり、これは必ず儲かるぞと思ってしまうと、ドキドキするし、損をするのじゃないかなと思うと、自分の体が縮むような気分になるのです。
そこでわたしは、こんなことで心配しているようではとても大事業なんかできっこないのだと思いなおし、それからというものは、たとえどんなことを計画するにしても、まず自分の心がしっかりとしているときにとくと思いを定めておき、いざ仕事にとりかかったときには、あれこれはいっさい考えないようにして、どしどし実行することにしてきたのであります。その後は、損得は別にして、まずは一人前の商人になれたものと思って今日までやってきたわけです。」
このはなしを、前に述べた滴水師がわたしに示した「両刃鋒を交えて避くるを須いず」という公案の語句と照らし合わせ、また自分の剣道と関連させて考えてみると、簡単にいいあらわせないような真理を感じるのであった。それは明治十三年三月二十五日のことである。
■大江戸豪商伝
4.剣禅一致
その商人のはなしによって感得したところを翌日から剣法の実際に試し、夜になると沈思精考という繰り返しで五日目の三月二十九日の夜になった。
いつものとおりに呼吸を集中していると、天地の間には何物もないという心境になっている自分の存在が感じられてきた。すでに夜は開けて三十日の朝になっていたのだが、坐ったままわたしは、浅利に向かって剣を振り、試合をしている姿勢をとってみた。ところがなんとしたことか、それまでとはちがい、いつもわたしの剣の前に立ちはだかる浅利の幻影が見えないではないか。
やったぞ、俺はついに無敵の極致に立ったのだ!
ひそかに喜んだわたしであったが、そのまま直ちに門人の籠手田安定を呼び寄せ、自分も木刀を手にして試合をやってみた。
二人の木刀がちょっと動いただけで、まだわたしの新工夫を発揮するひまもないのに、籠手田は、「先生、そこで勘弁してください!」と叫ぶのである。
わたしは木刀を引いて、なぜかと問うと、籠手田は、「わたしは長いあいだ先生の教えを受けてまいった者でありますが、今日の先生の刀ほど不思議な勢いは一度も見たことがありません。自分のような者には、先生の前に立つことなど全く不可能なことです。このような技が人間の力でできるものでありましょうか。」といい、驚嘆の表情を示すのであった。
わたしは次に浅利義明を招いて試合をお願いしたところ、浅利は喜んで引き受けてくれた。
浅利は木刀を構えてわたしに対した。一声気合をかけて飛びかかってこようというすさまじさである。だが、浅利は突然、木刀を捨て、面具をはずし、改まって言った。
「ついにやりましたね。これまでのところとは段違いの腕前です。わたしといえどもかなうものではありません。秘伝を授けるのが当然というべきです。」
伊藤一刀斎のいわゆる「無想剣」の極意は、こうしてわたしに伝えられたのである。明治十三年三月三十日のことであった。
しかし、それでわたしが安心しきったわけではない。その後もいいろに考究を重ね、幾分なりとも感得した点がある。それゆえ、自分の未熟もかえりみず、このように無刀流の一派を立てて有志の人士に伝授しようとしているのである。
以上のところで、わかっていただけるであろうが、わたしの剣法はただ技術を重視するものではない。精神のはたらきの極限にまで自分自身がつき進んでいくことだけを目標にしている。言いかえれば、天道の発する本源というものをつかみ、同時にその正しい活用方法を追究していくことを願うのである。一言にして言えば、見性悟道、つまり妄想を捨てて悟りを開くということである。その他に言葉を知らぬ。
それは剣の修業に限ったことではない。古人は言っている。
「業はつとめれば明らかになり、さらにつとめれば必ず極意を得る」と。
道を学ぶ人よ、請う、怠るなかれ。
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