福島県に減価する地域通貨を おおさか佳巨の活動報告

福島県に減価する地域通貨を おおさか佳巨の活動報告

日本の経済をもっと元気にするために、「減価する地域通貨」の仕組みを紹介。
難しそう?実はとてもシンプル。お金が地域の中をぐるぐる回ることで、お店も仕事も生活も守られます。
当ブログでは、日常の出来事やイベントを通して、実現までの道のりを記録していきます。

現在、私は石川県珠洲市で復興工事に携わっています。

現場に来てまず目に入るのは、
未だにひび割れたままの港、
歪んだ道路、
そして、手つかずのまま残されている場所の数々です。

 

 

もちろん、「復興は進んでいる」と、前知事も現職の珠洲市長も言っています。
確かに、全く何もやっていないわけではない。

 

しかし、現場で働く人間として正直に言えば、
“圧倒的に追いついていない”
これが実感です。

私は福島県で、原発事故後の除染や復興工事にも携わってきました。

 

今回は能登半島のうち最も先端にある珠洲市にて、建設会社の取締役・1級土木施工管理技士として乗り込みました。


復興というものがどれほど困難で、
どれほど時間と人と物流を必要とするのか、
少しは理解しているつもりです。

 

珠洲市は能登半島の先端部にあります。

 

 

かつては新潟との海路もあったそうですが、
現在は物流が極めて不便です。

 

建設資材を運ぶにも、
富山を回り、長距離を陸送しなければならない。

 

結果として、
資材価格は高騰し、作業員宿舎も不足し、「工事をやりたくてもできない」
そんな状況が生まれています。

 

実際、SNSだけでなく、
現場でも何度も聞きました。

 

「泊まる場所がない」
「ホテル代が高すぎる」
「材料が入ってこない」

 

だから今、
我々は作業員宿舎の整備にも関わっています。

 

ですが、
宿舎だけ整えても、
資材がなければ復興は進まない。

ならば港をもっと活用できないのか。
海上輸送を強化できないのか。

 

そう考えるのですが、
そこには既得権益や物流構造、
様々な問題も絡んできます。

 

結局、政治が本気で動かなければ解決できない問題なのだと思います。

 

今回の珠洲市長選挙では、
私は浦秀一さんを支援しています。

 

 

 

理由は単純です。

珠洲市議会議員として、
復興住宅の問題などを真正面から追及してきたからです。

 

「やります」
「進めています」

そう言うだけなら誰でもできる。

実際、言うだけでした。

 

しかし、
現場を見て、
問題点を直視し、
具体的に動く政治でなければ、
地方は守れません。

 

珠洲市は、
かつて3万人いた人口が、
今は9000人ほどになっています。

 

このまま、
「人が減るから仕方ない」
「端の地域だから後回し」

「港湾だからあとでいい」

 

そんな空気になってしまえば、
日本の地方は次々に消えていくでしょう。

 

私は、
日本を守るというのは、
人口の多い都市部だけを守ることではないと思っています。

 

能登半島の先端のような、不便で、人口が少なく、それでも人が暮らしてきた場所を守ること。

 

そこにこそ、
本当の国土保全や安全保障の意味があるのではないでしょうか。

福島も、
能登も、
現場に来なければ見えない現実があります。

だから私は、
これからも現場から発信を続けます。

 

最近、河川工学を調べていて改めて感じたことがあります。

それは、「川は本来、曲がりたがっている」ということです。

今の日本の河川は、コンクリートで固められ、真っ直ぐにされ、管理しやすい形へと変えられています。

もちろん治水のためです。
洪水から人命や街を守ることは極めて重要です。

しかし、その一方で、私はずっと疑問を持ってきました。

「自然の理に逆らい続けて、本当に長期的に安定するのか?」

という疑問です。

川は偶然曲がっているわけではない

河川地形学では、昔から興味深い経験則があります。

アメリカの河川研究者 Leopold と Wolman らの研究では、

  • 蛇行波長(蛇行1周期の長さ)は川幅の10〜14倍程度

  • 曲率半径(カーブの大きさ)は川幅の2〜3倍程度

になる傾向があることが知られています。

 

 

つまり川には、

「自然に動こうとするスケール」

が存在するのです。

 

これは単なる景観の話ではありません。

川は水だけではなく、

  • 流速

  • 土砂

  • エネルギー

  • 地形変化

を含めた巨大な動的システムです。

そのため、真っ直ぐ固定すると、一時的には整って見えても、別の場所に歪みが出る。

  • 洗掘

  • 河床低下

  • 護岸崩壊

  • 下流負担増加

などがその典型です。

 

 

「制御思想」の限界

戦後日本は、「自然を制御する」という思想で発展してきました。

  • 川を直線化する

  • 山を削る

  • 海を埋め立てる

  • コンクリートで固定する

確かに高度経済成長期には必要だった面もあるでしょう。

しかし近年、豪雨災害が激甚化する中で、その思想の限界も見え始めています。

自然は、本来固定される存在ではない。

 

むしろ「動きながら安定する」ものです。

これは河川だけではありません。

 

経済も、社会も、政治も、本来は流動性の中でバランスを取っています。

無理に固定すれば、どこかで歪みが爆発する。

 

私は、河川工学には現代社会そのものを映す哲学があると思っています。

これより私は、能登半島地震の復興の工事で、農業用用水路の復旧を行うにあたって、施工管理技士として、そのようなことを考えるようになりました。

多自然川づくりという考え方

最近は「多自然川づくり」という考え方も広がっています。

これは単なる環境保護ではありません。

  • 緩やかな蛇行を許容する

  • 高水敷を広く取る

  • ワンドや瀬・淵を残す

  • 自然石護岸を使う

など、川の自己調整能力を活かす工学です。

 

つまり、

「自然を完全に押さえつける」

のではなく、

「自然の力を理解した上で共存する」

という発想です。

 

私はこの方向性こそ、これからの日本に必要だと思っています。

 

自然を敵として見るのではなく、自然の理を読み、その流れを活かす。

 

それは、昔の日本人が本来持っていた感覚でもあったはずです。

川は曲がりたがっている。

 

それを無理やり真っ直ぐにする社会が、本当に持続可能なのか。

今、改めて考える時代に来ているのではないでしょうか。

 

以下は、行政の矛盾と福島県民に漂う泣き寝入り体質を問う話をした動画です。

 

 

 

 

「ヒツジ」で終わるのか、「市民」になるのか

「福島県の人は従順というか、みんなヒツジちゃんなんですね」

そんな言葉を、県外から来た方から聞くことがあります。


実際、私自身も福島に関わる中で、「波風を立てない文化」は確かに存在すると感じています。

もちろん、それ自体を単純に悪いとは思いません。

 

福島の人は、真面目で、我慢強く、空気を読む。


震災後の混乱の中でも、多くの人が耐え、地域を支えてきました。
これは他県にはない強さでもあります。

 

しかし一方で、その「従順さ」が、行政や既得権側にとって都合よく利用されてきた面も否定できません。

おかしいと思っても黙る。
矛盾を感じても従う。
誰かが声を上げても、「面倒を起こす人」として距離を置く。

 

 

 

その結果、地域は変わらない。

 

私は選挙活動や取材を通して、様々な人と話してきました。


すると表向きは静かでも、本音では怒りや不満を抱えている人が非常に多い。

 

「本当はおかしいと思っている」
「でも言えない」
「どうせ変わらない」

 

そうやって沈黙が積み重なっていく。

 

民主主義というのは、本来「従うだけ」の仕組みではありません。


市民一人ひとりが考え、議論し、時には行政や権力を疑うことで成り立つものです。

 

だから私は、「福島県民はヒツジだ」と切り捨てたいわけではないのです。

 

むしろ逆です。

 

長年、空気と同調圧力の中で耐えてきた人たちが、少しずつでも「自分の言葉」で語り始めること。
そこに、地域が変わる可能性があると思っています。

 

本当に必要なのは、誰かに従うことではなく、
自分の頭で考え、自分の責任で判断する県民が増えることではないでしょうか。

 

 

最近、「郡山市の税収が過去最高」「福島市の景気が回復している」――そんなニュースをよく見かけます。

確かに、数字だけを見れば一部は事実でしょう。

郡山市は県内経済の中心として、

  • 商業

  • 流通

  • 建設

  • 物流

が集中しています。

福島市も、

  • 行政機能

  • 医療

  • サービス産業

などが集積し、一定の税収基盤があります。

さらに、

  • 物価上昇

  • 企業収益の改善

  • 賃上げ

  • 建設需要

  • 復興関連事業

などが追い風となり、地方税収が上振れしている面は確かにあるようです。

しかし私は、ここで一つの大きな違和感を覚えます。

それは、

「税収が増えている=地域が豊かになっている」

とは限らない、ということです。


本当に大切なのは「入る金」ではなく「残る金」

行政はよく、

  • 「税収増」

  • 「過去最高」

  • 「上振れ」

を強調します。

ですが、本当に重要なのは、

「どれだけ入ったか」

ではなく、

「どれだけ地域に残るか」

ではないでしょうか。

例えば、大型チェーンや外部資本が進出し、売上が伸びたとしても、利益の多くは本社のある県外・首都圏へ流れていきます。

すると、数字上は景気が良く見えても、

  • 地元商店

  • 地場企業

  • 地域の雇用

には十分還元されない。

結果として、

  • 商店街の空洞化

  • 若者流出

  • 地元産業の弱体化

が進んでしまう可能性があります。


「生活実感がない」という声

実際、XなどSNSを見ても、

「税収が増えても生活は苦しい」

「景気回復の実感がない」

「お金が地域外へ流れている」

という声は少なくありません。

これは単なる不満ではなく、

“数字”と“生活実感”のズレ

が生まれているということです。

復興から15年以上が経過した今、福島県は、

「補助金で回る地域」

から、

「地域内で循環する地域」

へ変われるのかが問われています。


一部都市だけが持ちこたえる福島県

今の福島県では、

  • 郡山市

  • 福島市

  • いわき市

などへの人口・経済集中が進んでいます。浜通りに住んでいた人が原発事故によって移動したことも大きく影響しています。

一方で、

  • 中山間地域

  • 小規模自治体

  • 過疎地域

では、高齢化と人口減少が深刻化しています。

つまり、

「県全体が豊かになった」

というより、

「一部都市が持ちこたえている」

状態に近い。

地方の中の“地方格差”が、静かに広がっているのです。

 


これから本当に怖いのは「インフラ維持」

さらに今後、最も重くのしかかるのが、

老朽化インフラの更新費用

です。

高度成長期に整備された、

  • 道路

  • 学校

  • 水道

  • 公共施設

が一斉に更新期へ入っています。

人口が減る中で、

「少ない住民で巨大インフラを維持する」

のは、極めて厳しい。

税収が増えても、

  • 維持補修費

  • 社会保障費

  • 義務的経費

がさらに膨らめば、財政は硬直化していきます。


「地方自治」の現実

地方自治体は「自治」と言われます。

しかし実際には、

  • 地方交付税

  • 国庫補助金

  • 起債

など、国の制度に大きく依存しています。

つまり、

「地域独自の挑戦」

よりも、

「国の制度に適合する能力」

が重視されやすい構造です。

これでは、本当の意味での自立は難しい。


本当に必要なのは「拡大」ではなく「循環」

私は、これからの地方に必要なのは、

“拡大”ではなく、“循環”

だと思っています。

  • 地元事業者が生き残る

  • お金が地域内で回る

  • 小規模でも持続できる

  • 外部依存を減らす

そうした地域構造です。

例えば、

  • 農業の高付加価値化

  • 地場産業

  • 観光

  • 再生可能エネルギー

  • 地域コミュニティ

などを丁寧に育てていくこと。

税収だけ増えても、

  • 地元商店が消え

  • 若者が流出し

  • 地域コミュニティが崩れる

のであれば、それは本当の豊かさとは言えません。


福島県が今、本当に問われているもの

福島はこれまで、

  • 震災復興

  • 防災

  • DX

  • 国土強靱化

など、国家的政策の最前線に立ってきました。

しかし今、本当に問われているのは、

「地域が、自分たちの足で立てるのか」

ということではないでしょうか。

数字の成長だけを追い続けても、地域は持続しません。

本当に必要なのは、

「税収の質」

を高めること。

つまり、

お金が地域で循環し、
地域に残る仕組み

を作ることです。

それこそが、これからの郡山市、福島市、そして福島県全体に必要な視点なのだと私は考えています。

皆さんはどう感じますか?

ぜひ皆さんの声も聞かせてください。

 

私は今回、郡山市学校教育部・学校管理課に電話をしました。

内容は、
「個人情報の取り扱いを、今一度しっかり徹底してほしい」
というものです。

 

 

 

別に私は、
「誰かが犯罪をした」
と断定しているわけではありません。

 

しかし、教育行政というのは、極めて重い情報を扱っている。

子どもの住所。
家庭事情。
転校歴。


場合によっては、離婚や母子家庭に関する情報

 

こういう情報が、教育現場や行政の中に存在していること自体は、ある意味当然です。

問題は、その情報が“どう扱われるのか”です。

 

 

私は昔から、政治の世界で支配の構造というものを見てきました。

権力を持った瞬間、人は変わる。

 

それは国会議員でも、地方議員でも、行政でも、PTAでも、学校でも同じです。

 

野党から政権交代で与党になって大臣になって、勘違いしていた人。

若くして区議会議員になって殿様気分の人。

 

大きな悪意というより、
「これくらいなら大丈夫」
という感覚から、組織は腐っていく。

 

そして教育という世界は、閉鎖性が強い。

 

大人の世界以上に、


「空気」
「上下関係」
「逆らえない空気」


が支配する。

 

もし仮に、職務上知り得た家庭情報が、家庭内で話題になり、

その子どもを通じて学校内へ伝わるようなことがあればどうなるか。

 

子ども同士の力関係にまで影響する可能性がある。

 

「うちのお父さん、教育委員会の職員だから」

そんな空気だけでも、同級生の子どもたちは萎縮する。

 

私は、そういう“構造”を問題にしているのです。

 

今回、学校管理課の担当者の方は、丁寧に対応してくださいました。

 

「職務上知り得た秘密を家族に話すことはない」
「内部でも共有する」

 

という趣旨のお話もありました。

私はその言葉を信じたい。

 

 

 

だからこそ、今回の電話は、
「糾弾」
ではなく、
「警鐘」
です。

 

 

行政は、市民の信頼で成り立っています。

学校もまた、保護者の信頼がなければ成立しない。

 

だからこそ、
問題が起きてからでは遅い。

 

被害者が出て、
ニュースになって、
騒ぎになってからでは遅い。

 

火は、小さいうちに消した方がいい。

 

私はそう思っています。

 

今の時代、一歩間違えれば人生を壊します。

 

特に子どもの世界は残酷です。

 

だから私は、
感情論ではなく、
制度と倫理の問題として、
これからも行政の透明性を見ていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

石川県・珠洲市の海岸に来ています。

能登半島地震の復興工事が進み、海岸沿いには重機が並び、護岸工事が続いていました。

その光景を見て、私は福島の震災復興を思い出していました。

私は福島で、復興工事や除染、建設業界の現場を長年見てきました。
そして政治の側にもいました。

民主党政権時代には、国家公安委員長や消費者担当大臣などを兼務していた国務大臣の秘書として、公正取引委員会関係の業務にも関わっていました。

だからこそ分かることがあります。

 

 

 

復興というのは、単にコンクリートを積み上げることではない。
その裏で、誰が苦しみ、誰が取り残されているのかを見なければ、本当の復興にはならないということです。

 

今日、一本の電話がありました。

 

福島の復興工事に携わっていた作業員の方からでした。

当時勤めていた会社の社長が、未払いのまま逃げてしまったというのです。

 

震災後、福島では除染や復興工事で急成長した会社が数多くありました。
しかし、その後、倒産した会社もあれば、社長が突然姿を消したケースもありました。

 

その人は、10年以上経った今でも、その社長を探していると言っていました。

けれど、その間に本人は年を取り、左膝も悪くしてしまった。


もう以前のようには働けない。

私はお金を貸すことはできません。

 

ですが、「もう終わりですね」で終わらせることはしたくありませんでした。

今はオートマのダンプカーもあります。
左足が不自由でもできる仕事もある。

 

だから私は、現在つながりのある建設会社に相談し、仕事につながる可能性を探しました。

こういう時、私はいつも思います。

 

日本には制度がある。
しかし、その制度に辿り着けない人が多すぎる。

 

建設業界では、未払い問題が起きても、多くの人が泣き寝入りします。

「元請けに言ったら次の仕事がなくなる」
「業界で干されるかもしれない」
「我慢していれば次で返してもらえる」

そうやって耐え続け、さらに被害が広がっていく。

しかし、法律は本来、そういう人を守るために存在しています。

 

作業員であれば、労働基準監督署。
下請け業者であれば、下請法や公正取引委員会。

 

実際、公正取引委員会は「下請けいじめ」に対応する役割を持っています。

私は秘書時代、その仕組みを学びました。

だから今、困っている人に対して、

「一緒に窓口へ行きますよ」

と言っています。

 

役所へ行くこと自体、勇気が必要だからです。

 

特に福島県内では、「どうせ無理だ」「揉めたくない」と諦めてしまう人を多く見てきました。

でも、本来受けられるはずの救済を知らずに終わるのは、あまりにも悔しい。

 

さらに、その方は身体障害の申請にも抵抗を感じていました。

「障害認定なんか受けたら、仕事がなくなる」

そう思っていたのです。

 

しかし現実には、障害者雇用に対する支援制度もあります。

私は、制度を使うことは「負け」ではないと思っています。

むしろ、生きるために制度を使うことは当然の権利です。

 

海岸では、復興工事が続いていました。

 

防潮堤ができ、護岸が整備され、景色は少しずつ変わっていく。

ですが、本当に復興しなければならないのは、人の人生ではないでしょうか。

復興を支えた作業員が、10年後に身体を壊し、未払いに苦しみ、誰にも相談できずにいる。

私は、そういう現実を見過ごしたくありません。

 

だからこれからも、制度と現場をつなぐ活動を続けていこうと思います。

 

 

私は昨年夏から、ある身体障害者の方の「歩行器支給問題」に関わっています。

この方は、全身に重い障害を抱えており、車いすか寝たきりの状態で生活しています。

 

 

しかし本来、人間の身体というものは、少しでも動かさなければ筋肉や関節が固まり、血流も悪化し、そこから二次障害が次々と発生していきます。

 

だからこそ歩行器は、単なる“移動道具”ではありません。

 

残された身体機能を維持し、
生活を少しでも人間らしく保つための「命綱」に近いものです。

 

ところが郡山市障がい福祉課は、この歩行器支給を認めませんでした。

 

理由を要約すれば、

「歩けない人に歩行器は必要ない」

という考え方です。

 

私は本人と共に、何度も郡山市役所へ足を運びました。

現状を説明し、
身体機能の維持の必要性を訴え、
生活実態を伝えてきました。

しかし返ってくるのは、

「制度上」
「手続上」
「基準上」

という言葉ばかりでした。

そして最終的に、行政不服審査へ進むことになりました。


「簡易迅速」と書いてあるのに、なぜ半年以上かかるのか

行政不服審査法第1条には、

「簡易迅速かつ公正な手続の下で国民の権利利益の救済を図る」

と書かれています。

つまり本来この制度は、

「行政判断で困っている市民を、迅速に救済する制度」

のはずです。

ところが郡山市側から説明されたのは、

  • 審査会の日程調整

  • 委員を集める時間

  • 答申作成

  • 内部決裁

などを理由に、

「ここからさらに3〜6か月かかる」

という説明でした。

 

 

 

しかも、この問題は昨年夏から続いています。

つまり場合によっては、1年前後に及ぶ可能性すらあります。

私は率直に思いました。

それのどこが「簡易迅速」なのか、と。


自分たちの給与は即決、市民の命は後回し

私がこの問題で郡山市役所へ行った日、市議会ではある条例案が緊急上程されていました。

それは、

  • 市長給与

  • 市議報酬

  • 職員給与

  • ボーナス

などを引き上げる条例案でした。

しかも、それは非常に早いスピードで採決されました。

一方で、
身体障害者の歩行器支給については、

  • 「時間がかかる」

  • 「手続が必要」

  • 「委員が集まらない」

  • 「審査会が必要」

と説明される。

私はここに、行政の優先順位が現れていると思っています。

自分たちの待遇改善は迅速。

しかし市民の生活や命に関わる問題は、何か月も先送り。

これでは、市民が行政不信を抱くのも当然ではないでしょうか。

 


「第三者委員会」たる郡山市行政不服審査会は本当に第三者なのか

今回、行政不服審査会についても説明を受けました。

委員には、

  • 弁護士

  • 行政書士

  • 税理士

  • 大学准教授

  • 不動産鑑定士

などが入っているとのことでした。

しかし実際には、この審査会は「最終決定機関」ではありません。

 

審査会は“意見”を出すだけで、
最終判断は郡山市自身が行います。

 

つまり、

「第三者の意見を聞いた上で、市が市を判断する」

という構造です。

 

もちろん制度上は合法です。

 

しかし市民感覚からすれば、

「本当に独立性があるのか」

という疑問は当然出てきます。

 

しかも委員の中には政治活動に関わる人物もいます。以下は郡山市行政不服審査会の委員です。

 

1 佐藤 伸弘 行政書士

(福島県行政書士会)

2 鈴木 裕也 弁護士

(福島県弁護士会郡山支部)

3 古川 寛 税理士

(東北税理士会郡山支部)

4 山田 朋生 日本大学工学部 准教授

5 渡邉 眞宏 不動産鑑定士

(公益社団法人福島県不動産鑑定士協会)

 

そうした中で、
完全に中立な審査が行われるのか。

市民側が疑問を抱くのは自然なことだと思います。


福祉において「時間」は命に直結する

行政側は繰り返します。

「手続上必要です」
「法に基づいています」
「順番があります」

しかし福祉の現場では、

時間そのものが不利益になる。

これが現実です。

身体障害を抱える方にとって、

  • 身体機能低下

  • 関節拘縮

  • 筋力低下

  • 精神的疲弊

は、日々進行していきます。

つまり、

「結論が出るまで待ってください」

という言葉そのものが、
現実には非常に重い意味を持つのです。

しかも行政不服審査制度とは、
本来そうした人を救済するための制度だったはずです。

それなのに、

  • 半年以上

  • 場合によっては1年近く

かかるのであれば、

制度理念と現実運用が完全に乖離していると言わざるを得ません。

 

 

 

 


郡山市だけの問題ではない

私は今回の件を、
単なる「郡山市役所への不満」として終わらせるつもりはありません。

これは地方行政全体に共通する構造問題だと思っています。

地方行政では、

  • 前例主義

  • 責任回避

  • 手続重視

  • 内部調整優先

が非常に強く働きます。

その結果、

「お気持ちはわかります」
「検討します」
「時間が必要です」

という言葉で、
実質的な先送りが行われる。

特に福祉分野では、
その“時間”によって人生そのものが削られていく人がいる。

ここを政治も行政も、本気で考え直さなければならないと思っています。


最後に

私は感情だけでこの問題を語っているわけではありません。

むしろ今回の件で見えてきたのは、

  • 制度理念

  • 現場運用

  • 市民感覚

  • 福祉現場

この4つの間に存在する、大きな乖離です。

行政不服審査法は「簡易迅速」を掲げています。

ならば本当に簡易迅速になっているのか。

生活や命に直結する案件で、
行政は本当に市民を救済する方向へ動いているのか。

それは今後も、厳しく検証されなければならない問題だと思っています。

ただいま、とある福島県民から受けてる陳情は次の動画の通りです。

 

 

 

そして郡山市の行政不服審査の手続きをしているところです。

 

 

 

そして、実際に郡山市の審理員に問い合わせをしました。

 

 

 

このような経緯により、条例化を求めます。

 

以下は、既存の 「障がいのある人もない人も共に暮らしやすい福島県づくり条例」 を踏まえつつ、福島県条例として整えた形の条例案です。 (福島県公式サイト)


福島県歩行補助用具支給適正化条例(案)

第一条(目的)

この条例は、身体障がい者、難病患者その他歩行機能に制限を有する者に対する歩行補助用具の支給に関し、個々の障がい特性、生活環境及び医学的必要性を適切に反映した公正な判断を確保し、もって障がい者の自立、社会参加及び尊厳ある生活の実現に寄与することを目的とする。


第二条(定義)

この条例において「歩行補助用具」とは、次に掲げるものをいう。

一 歩行器
二 歩行車
三 支持具
四 その他歩行又は移動能力の維持若しくは補助を目的とする補装具


第三条(基本理念)

県及び市町村は、歩行補助用具支給の判断に当たり、障がい者の残存機能維持、自立支援及び社会参加を最大限尊重しなければならない。

2 県及び市町村は、障がい者を「完全自立歩行可能者」と「寝たきり」の二元的区分により判断してはならない。


第四条(画一的判断の禁止)

県及び市町村は、次に掲げる事由のみをもって歩行補助用具の支給を拒否してはならない。

一 自力歩行が著しく困難であること。

二 車椅子を併用していること。

三 常時介助を必要としていること。

四 長距離歩行が困難であること。

五 完全歩行が困難であること。


第五条(総合的判断義務)

県及び市町村は、歩行補助用具支給の要否判断に当たり、次に掲げる事項を総合的に考慮しなければならない。

一 医師その他専門職による医学的意見

二 残存歩行能力の維持可能性

三 転倒防止効果

四 廃用症候群予防効果

五 リハビリテーション効果

六 介護負担軽減効果

七 本人の生活実態及び居住環境

八 本人の意思及び社会参加の必要性


第六条(説明責任)

県及び市町村は、不支給決定を行う場合には、申請者に対し次に掲げる事項を書面により説明しなければならない。

一 不支給理由

二 適用した法令及び基準

三 考慮した医学的意見

四 採用しなかった意見及びその理由

五 不服申立て方法


第七条(意見陳述権)

申請者は、補装具支給に関する審査において、口頭又は書面により意見を述べることができる。

2 県及び市町村は、申請者から求めがあった場合には、家族、支援者、医師、理学療法士その他関係者の同席を認めるよう努めなければならない。


第八条(第三者性の確保)

県は、補装具不支給に係る審査の公正性及び中立性を確保するため、外部有識者を含む第三者的審査体制の整備に努めるものとする。


第九条(情報公開)

県は、歩行補助用具支給に係る審査基準、不支給件数その他運用状況について、公表に努めるものとする。


第十条(市町村との連携)

県は、市町村に対し、この条例の趣旨に基づく適正な運用が図られるよう、必要な助言、指導及び情報提供を行うものとする。


附則

この条例は、公布の日から施行する。


この条例案の特徴は、

  • 「歩けない=不要」という論理を明確に禁止

  • 「残存機能維持」を行政責務として条文化

  • 車椅子利用者でも対象になることを明文化

  • 廃用症候群予防を福祉目的として位置付け

  • 不支給理由の詳細開示義務

  • 外部第三者審査の導入

を盛り込んでいる点です。

また、現在の福島県の障がい福祉施策や共生条例との整合性も意識した構成にしています。 (福島県公式サイト)

 

 

不幸が消費される時代の構造

テレビをつけても、スマホを開いても、流れてくるのは暗いニュースばかりです。

 

 

不倫
汚職
炎上
詐欺
対立
スキャンダル

 

もちろん、社会の問題を報じること自体は必要です。
しかし、なぜここまで「悪い話」が溢れ続けるのでしょうか。

その背景には、人間の心理と「お金」の問題があります。


人は「幸せ」より「不幸」に反応してしまう

人間は本能的に、幸福よりも危険や不幸に強く反応します。

これは生存本能でもあります。

平和な出来事よりも、

  • 誰かが失敗した

  • 誰かが裏切った

  • 誰かが転落した

  • 何か悪いことが起きた

こうした情報の方が強く注意を引く。

だからニュースも、SNSも、週刊誌も、「刺激の強い話題」に人が集まる構造になっていくのです。


「悪」が経済になる時代

問題なのは、その構造が巨大なビジネスになっていることです。

悪いニュースは再生される。
クリックされる。
拡散される。

つまり、お金になる。

すると作る側も、どうしても「人の悪い部分」を探し始めます。

 

もちろん事実を追及する報道は必要です。

しかし、いつの間にか「社会を良くするため」ではなく、「数字を取るため」に刺激が増幅されていく。

ここに現代メディアの大きな問題があります。


人の怒りや憎しみは、最も拡散されやすい

SNSでも同じです。

穏やかな話よりも、

  • 怒り

  • 憎しみ

  • 対立

  • 嘲笑

の方が圧倒的に伸びる。

 

なぜなら感情が強く動くからです。

 

アルゴリズムも、人が長く見るものを優先するため、結果として「過激な情報」がどんどん前面に出てくる。

すると社会全体が、少しずつ荒れていく。

本当は善良な人が多いはずなのに、ネットを見ると「世の中は悪人だらけ」に見えてしまう。

これは現代社会の大きな錯覚の一つです。


お金を追うほど、人は刺激へ向かう

動画でも語られていたように、「何かをやろうとすると、お金を稼がなければならない」という現実があります。

メディアも、YouTubeも、SNSも、結局は経済活動です。

 

生活がかかっている以上、人はどうしても「伸びるもの」を作ろうとする。

 

そして残念ながら、多くの場合、

「優しい話」よりも
「怒りを煽る話」の方が伸びる。

 

これが現代社会の難しさです。そして政治もそうです。


だからこそ、何を見るかが重要になる

今の時代、本当に大切なのは「情報を選ぶ力」だと思います。

悪いニュースばかり見続ければ、人の心も暗くなる。

誰かを叩く情報ばかり追えば、自分自身も攻撃的になっていく。

もちろん現実から目を背ける必要はありません。

しかし、

  • 建設的な議論

  • 地域の活動

  • 誰かを助ける行動

  • 静かに頑張る人々

そうした情報にも目を向けなければ、社会認識そのものが歪んでいきます。


「何を拡散するか」で社会の空気は変わる

結局、社会の空気を作っているのは、一人ひとりの選択です。

怒りばかりを拡散するのか。
希望も一緒に広げるのか。

悪を暴くことは必要です。


しかし、それだけでは人の心は疲弊していく。

 

だからこそ今、必要なのは、

「何が悪いか」だけでなく、
「どうすれば良くなるか」を語る視点なのではないでしょうか。

 

不幸を消費する社会から、
希望を育てる社会へ。

その方向へ少しでも変えていけるかどうかは、私たち自身にかかっているのだと思います。

「私たちは仲間です」
「愛を持って支え合おう」
「人を救いたい」

宗教でも、スピリチュアルでも、市民団体でも、政治団体でも、こうした言葉はよく使われます。

しかし現実には、少しでも意見が違ったり、組織の方針に従わなかった瞬間に、

「出ていってください」
「あなたはふさわしくない」

という空気になることがあります。

それを見た時、多くの人は強い違和感を覚えるのではないでしょうか。


本来の「愛」とは条件付きなのか

 

この話の中で私が語ったのは、とても本質的なテーマです。

本当に「愛」を語るのであれば、
本当に「人助け」を掲げるのであれば、

そこには本来、条件があってはならないはずです。

自分に従う人だけ助ける。
組織に利益をもたらす人だけ歓迎する。

それは果たして「愛」なのか。

むしろ、組織を守るための論理になってしまっているのではないか。

私が抱くこの疑問は非常に重要であると思います。


個人の善意と、組織の論理は別物

人間個人としては、優しく誠実な人がたくさんいます。

しかし、ひとたび「組織」になると話が変わる。

官僚組織。
巨大企業。
労働組合。
宗教団体。
政治団体。

どれも最初は理想や理念から始まったはずなのに、時間が経つと「組織を維持すること」そのものが目的化していく。

すると、

  • 異論を嫌う

  • 内部批判を封じる

  • 組織防衛を優先する

  • 人よりもルールを守る

という方向へ進みやすくなります。

これは宗教だけの話ではありません。

現代社会全体に共通する問題です。


「救済」がビジネス化していく危険性

私が兼ねてより指摘してきたのは、「スピリチュアルや宗教の商業化」への指摘でした。

本来、人を救うための活動だったはずが、

  • 高額商品

  • 高額セミナー

  • 高額な開運グッズ

  • 壺や印鑑

  • “特別な力”を売る商法

へと変質していく。

もちろん、活動には最低限の運営費は必要です。

ですが、「救済」を掲げながら過度に利益追求へ向かうと、人はそこに不信感を抱きます。

なぜなら、本当に困っている人ほど、お金に余裕がないからです。


本当に誠実な人ほど、静かに生きている

動画の中では、「会費だけで講演を行い、普段は普通に働いていた宗教家」の話を出しました。

こういう人には、どこか誠実さがあります。

大きな豪邸もない。
高級車もない。
派手な演出もない。

それでも人が集まる。

 

なぜか。

言葉と生き方が一致しているからです。

結局、人はそこを見ています。

どれだけ立派な理念を語っても、生き方が伴わなければ、どこかで見透かされる。

逆に、静かでも誠実な人には、不思議と信頼が集まるものです。


組織のための人間か、人間のための組織か

現代社会では、多くの組織が巨大化しすぎています。

その結果、本来は人を幸せにするために存在していたはずの組織が、「自分たちを維持すること」を最優先にし始める。

すると、人の心は置き去りになります。

 

本当に大切なのは、

「組織のための人間」になることではなく、
「人間のために組織がある」という原点を忘れないこと。

宗教でも、政治でも、会社でも、それを見失った瞬間に、人は離れていくのだと思います。

そして今、多くの人が社会に対して感じている違和感の正体も、実はそこにあるのかもしれません。