2021年11月12日(金)ZOOMにて
平和を願う音楽家の会主催の勉強会
長澤志保子さんの紙芝居
「私の戦争体験」(千葉空襲)を見る会
を開催致しました。
長澤志保子さんは、1944年に、爆撃が始まった生地の東京四谷から、お母様の生家の千葉市蘇我町に疎開され、翌年の千葉市空襲を体験されました。
ご自身の大病をきっかけに、その体験を残したいというお気持ちから、この紙芝居を描かれました。
今回、ご本人の実演による紙芝居を鑑賞する機会を得られました。
ZOOMリモートではありながらも臨場感に溢れ、静かに平和の尊さを訴えられ、「千葉空襲の体験を伝えたい。」との想いの深さを感じました。
●長澤志保子さんプロフィール
1936年東京生まれ。
1960年に千葉大学病院、翌年から放射線医学総合研究所に放射線技師として勤務、1997年定年退職。
高校の一年先輩に市原悦子さん、同期に飯髙和子さんがいたことから、演劇・書道が趣味で、地元の市民劇団「座・劇列車」に立ち上げから参加。今年12月5日、30周年記念公演の「やまんばおゆき」では、おきぬ役で出演。
書は、放射線医学総合研究所病院玄関に「風の又三郎」、四街道市役所に広島市長・秋葉忠利氏の「被爆アオギリ二世メッセージ」を掲載。
地元小学校で毎年行う6年生との『戦争体験者との話会』に10年以上出席。
★紙芝居「私の戦争体験」より
素朴で温かな絵の中より5枚、抜粋してご紹介させていただきます。
※紙芝居の台本部分は、一部抜粋、及び再編集をしています。
第二次世界大戦始まる 召集令状
1941年12月8日、私が5才の時、日本はアメリカの真珠湾を攻撃して、太平洋での戦争に入りました。
戦争に批判的だった父には、すぐに召集令状(赤紙)がきて、26日に兵隊として家を出ました。
母と私と弟で目黒の兵舎へ面会に。帰り、父の後ろ姿を見送りました。
母の遺した日記に、次のような短歌がありました。
面会の君に別れてバス待てば
兵舎の屋根に 星ひとつ冴ゆ
5月8日 機銃掃射の弾が
鉄兜をかぶった兵隊が銃をコッチに向けてダッダッダッと撃ってくるのを、押入れの中で布団をかぶって見ました。バタバタバタ家の中にも弾が… 台所やトイレの壁を貫通して4個ありました。
この機銃掃射で、私たちが四谷から引っ越す時、家具を馬車で運んでくれた近所の人が亡くなりました。
頭やお腹に4発の弾が入っていました。
6月10日 町に爆弾が
この日は、朝8時にいきなりの空襲警報。近所の家の壕に慌てて駆け込むと、すぐ近くにドシンと大きなものが落ちました。
「爆弾だっ!」と壕の中で皆んな固まりました。しばしシーンとして、出てみると3m位離れた畑に大きな穴が空いていて、直径1m位の円盤がはまっています。500m位離れた町内に爆弾が落とされていました。畑の円盤は爆弾の蓋だったのか。
その後、道路わきの溝の中に、千切れたもんぺの付いた足首が何日もありました。
7月6日、7日 七夕空襲
警戒警報が鳴り、家族は大巌寺の山の防空壕まで、真っ暗な中を1時間かけて逃げました。
壕から見ると千葉の方が全部真っ赤に燃えて見えました。
焼夷弾でやられたのは千葉駅、京成千葉〜県庁近くの市の中心部。
都川には死体が累々と浮いていたそうです。
終戦 過労と栄養失調で
終戦直後の9月、過労と栄養失調で学校に行けず、寝たきりに。
ある晩、私はとても良い気持ちになり、うっとりと目を開けました。
たくさんの綺麗な蝋燭に囲まれて、周りには弟妹たちが心配そうに私を見ています。
雨の中、市原まで母が迎えに行った医者の応急措置で、私は命を取り留めました。
あの快い気持ちは、臨死体験だったのかと後になって思います。
●参加者の感想
- 両親や祖父母などから、先の戦争下での体験談を聞いたことがあるが、直接の体験者のお話をお聞きするのはとても貴重な時間だった。
- 子供のころの体験を端的に表現した絵による紙芝居は、今の子供たちの心にもすんなり入るはず。子供に見せたい。
- 体験者の高齢化により、お話を伺う機会は限られてくる。体験談は大切に残したい。
- 平和を願う音楽家の会としても、再演を企画したい。できれば広い会場で、紙芝居でなく、スクリーンを利用した、長澤さんの演技としてお聞きできれば。
運営委員 千葉合唱団 湯川雅枝