73回目の終戦の日 二十歳の息子に贈る言葉   | heiwa789のブログ

heiwa789のブログ

ブログの説明を入力します。

73回目の終戦の日 二十歳の息子に贈る言葉  


テーマ:

 

73回目の終戦の日 二十歳の息子に贈る言葉

 

 

学徒出陣を知っているかい?

 

 

学徒出陣(がくとしゅつじん)とは、第2次世界大戦終盤の1943年(昭和18年)兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で出征させたことである。日本国内の学生だけでなく、当時日本国籍であった台湾人や朝鮮人、満州国や日本軍占領地、日系2世の学生も対象とされた。 学徒動員と表記されたこともある

 

1943年(昭和18年)10月21日、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が文部省主催、陸海軍省の後援で実施された。 壮行会の様子は社団法人日本放送協会(NHK)が2時間に半にわたり実況中継を行い、また映画「学徒出陣」が製作されるなど、劇場化され軍部の民衆扇動に使われた。秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々(引き続き徴兵猶予された理工系学部制、中等学校(旧制)生徒、女学生などが計96校、約5万人が、学校ごとに集められた)の前で東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の各大学・専門学校からの出陣学徒(東京帝国大学以下計77校)の入場行進 宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部科学大臣による開戦詔書の奉読、東條首相による訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞、海もゆかばの斉唱、などが行われ、最後に、競技場から宮城まで行進して終わったとされる。 出陣学徒は学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い列した。

 

壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)12月陸軍へ入営あるいは海軍へ入団した。 入営時幹部候補試験などを受け将校・下士官として出征したものが多かったが、戦況が悪化する中で、しばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されたり 、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで、大量の戦死者を出した。 1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にかけて、戦局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数、現れた。

 

全国学徒兵として出征した対象者の総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学生改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。 出征者は13万人という説もあるが、推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事ができないままである。

ただし当時の文部省の資料によれば、当時の高等教育機関就職率(大学・専門学校・旧制高等学校などの統計)は5%以下であり、さらに理工系学生は引き続き徴兵猶予されたため学徒兵の実数は決して多くなかった。 しかし多くが富裕層の出身であり、将来社会の支配層となる予定の男子であった大学生が「生等もとより生還を期せず」(江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戦場に向かった意味は大きく、日本国民全体に総力戦への覚悟を迫る印象的な出来事となった。

 

戦後の困難

1945年(昭和20年)9月2日に日本が降伏文書に調印し日本軍が武装解除されると、海外・外地各地(内地である沖縄・奄美・樺太・千島を含む)からの復員が開始された。しかし満州国駐留の関東軍や北方方面の第5方面軍などに配属されていた学徒兵は、ソビエト連邦の対日参戦によるシベリア抑留を受け復員ができず死亡する者も出た。

 

また学徒兵は前途のように学歴をいかし陸軍幹部候補生や海軍予備学生などを志願して下士官以下の階級となった者が多く、日本軍が行った捕虜の虐殺や処刑などの残虐行為について現場責任者として告発される例が生じた。  BC級戦犯裁判で死刑宣告され、帰還後日本であるいは、降伏した現地で命を落とす学徒兵もあった

 (ウイキペディアより一部抜粋)

 

 

 

もう一つ

『きけ わだつみのこえ』(岩波書店、日本戦没者学生祈念会)(わだつみ会編)

 

(日本戦没学生の手記)

 

上原良司

慶応大学経済学部学生。昭和一八年一二月入営。 二〇年五月一一日陸軍特別特攻隊として沖縄県嘉手納(かでな)湾の米国機動部隊に突入戦死。 二二歳

 

遺書

 生を享(う)けてより二十数年何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。温かきご両親の愛の下、良き兄妹の勉励により、私は楽しい日々を送ることが出来ました。そしてややもすれば我儘(わがまま)になりつつあった事もありました。この間ご両親様に心配をおかけしたことは兄妹の中で私が一番でした。

それが何の恩返しもせぬ中(うち)に先立つ事は心苦しくてなりません。

 空中勤務者としての私は毎日毎日が死を前提としての生活を送りました。

一字一言が毎日の遺書であり、遺言であったのです。 高空においては、死は決して恐怖の的ではないのです。このまま突っ込んで果たして死ぬだろうか、否(いな)、どうしても死ぬとは思えませんでした。 そして、なにかこう突っ込んで見たい衝動に駆られたこともありました。 私は決して死を恐れてはいません。 むしろ嬉しく感じます。 何故ならば、懐かしい龍兄さんに会えると信ずるからです。 天国における再会こそ私の最も希(のぞ)ましいことです。 

 私は明確にいえば、自由主義に憧れていました。 日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。 これは馬鹿なことに見えるかもしれません。それは現代日本が全体主義的な気分に包まれているからです・

しかし真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的になる主張だと思います。

 戦争において勝敗をえんとすれば、その国の主義を見れば事前において判明すると思います。  人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦(かちいくさ)は火を見るより明らかであると思います。

 私の理想は空しく敗れました。  人間にとって一国の興亡は実に重大なことでありますが、宇宙全体から考えた時は実に些細(ささい)なことです。

 離れにある私の本箱の右の引き出しに遺本があります。開かなかったら左の引き出しを開けて釘をぬいて出して下さい。

 ではくれもご自愛のほど祈ります。

 大きい兄さん清子はじめ皆さんに宜しく、

 ではさようなら、御機嫌良く、さらば永遠に。 

                           良司(りょうじ)

      

 

 

 

インターネットで学徒出兵の、当時の短い映像を見た、学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い列した。

 

小銃を抱えて整列している姿に、まだあどけなさが残っていた、我が子の姿と重なった

二十歳まで育てあげ、激戦地に送り出さなければならなかった本人・ご家族の想いは、いかばかりであったであろう

 

 

多くの若者が、戦況が悪化する中で、しばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されたり 、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで、大量の戦死者を出した。               

また、戦犯として命を落とす学徒兵もあった・・・

 

日本の将来を担う多くの若者たちが、生きることも許されず、無駄死にを強いられたのだ。

 彼ら一人一人の想いや願い、一人一人の命の重さに目を向けた時、彼らが当時思い描いたが実現することが出来なかった、『自由で平和な世界』を守り抜くことが、今を生きる私たちの責任であり、使命であると思う

 

#学徒出陣#自由主義#文部省#壮行会#東京帝国大学#出征#平和#全体主義#命#終戦記念日

AD