街を散歩しながらふと気がついた、、、
そういえばもう長らく彼に会っていないということに、、、

彼とはサタンさんのことだ。(笑)

昔この教えを実践していたときには確かに彼は存在していた、、、

私が自信をもって言うのだから間違いない。(笑)

それも一人や二人どころではない。

ある時は出会う人々の背後に、
またある時は話す相手の心の中に、
またテレビのニュースを見ればその時流される映像の中に、、、

確かに彼は存在していた。

なのに、である、、、

今現在の私には彼を見つけることがどうしてもできない。
どこを探しても見つからない。

いったい彼はどこに行ってしまったのだろう、、、

このブログ記事をお読みのどなたか親切な方、
もしご存知でしたら私に彼の居場所を教えて頂けませんか?

もう長らくお会いしてないので彼がどうしているのか気になったので、、、(笑)

ただ不思議なことに、至る所に彼を見ることで、彼の侵入を防ごうと周りへの警戒や不信を強くし心に鎧をまとっていた頃よりは、全く彼を見なくなったがために、そうした心の鎧や構えが解かれた現在の方があらゆる点で格段に物事がスムーズにうまく展開していっているようである。
今の私にはわざわざ彼の侵入を警戒するための武装をする何の必要性も感じてはいない。

私が教義の矛盾に気づくようになった時期と彼を見かけなくなった時期とが重なることから察すれば、この世にサタンを見出すためには、どうやら教義という媒体が必要なようである。

しかし、なぜわざわざ教義による衣をまとってまで、この世に悪魔を見ようと努める必要があるだろうか?

残念だが、私はこれからも生涯にわたってサタンさんにお会いする機会はなさそうである。(笑)

この教会の信仰により心に傷を負った人たちにとっては、教会への批判がその大切な癒しとなることもあるだろう。
だから私は批判を否定したりしない。
この極端な教えによって生じた歪みを修正し、心のバランスを回復してゆくためには、むしろそれは必要なことだろうから。
だから思うままに批判していったらいいと思う。

しかし、おせっかいにはなるが、そうすることで自分の中の鬱積した感情を発散させ、解き放つことができたならば、、、

これからの自分には「許し」 という選択肢があることに気づいてもよいのかも知れない。

なぜならこの教えからの完全な解放と自由は許しによってもたらされるものだから、、、

もしあなたがこれからも、アンチという立場で批判を続けていくならば、
あなたはおそらく自由になることはできないだろう。
もちろん身体は教会の拘束から解放されて自由になったつもりでいるかもしれないが、
しかし依然として心は囚われたままになるだろう。

あなたがそうしてアンチという方向に向かおうとしたのは、それはあなたの純粋で真っ白な心の自由からの選択によるものだろうか?

たぶんそうではないはずだ。

それが教会へのかつての恨みを原動力とするものであるならば、
アンチな方向に向かえば向かうほど、その原動力たる恨みもいつまでもあなたの心の中でくすぶり続けることになるだろう。

そしてその恨みはさらにあなたをアンチな方向へと縛り付けることになってしまうという、悪循環のループにのめり込んでしまうことになるだろう。

果たしてそこに自由はあるだろうか?
それであなたはこれまでのマインドコントロールから完全に解放されたと言えるだろうか?
残念ながら、皮肉なことに、これまでのマインドコントロールへの反動がまた新たなマインドコントロールを生み出す結果になってしまうのだ。

「こうでなければならない」が「こうであってはならない」に変わろうとも、どちらもそれは思い込みであり、等しくマインドはコントロールされたままなのだ。

教会への批判を展開してゆくこと、、、
それがあなたが本当にしたいことであれば、私がとやかく言うことでもない。
別にそれ自体は悪いことでもなんでもないのだから、、、

しかし、もしあなたが批判を展開することが自由を得ることだと思っているのなら、、、
それは誤解である。

そうではなく、本当の自由を手にしたいのであるならば、、、

教会に対する許しというものが、きっとあなたの大きな助けになってくれるに違いない。

許しがいかに偉大な解放をもたらすことになるか、ということについて、ここで立ち止まり、じっくり時間をかけて熟考してみるのもいいかも知れない。

この宗教関連の人気ブログで教祖の統合失調症を疑う記事が載せられていた。
だからこそ幻聴を神の言葉と信じ盲信し突き進むことで、
周りをも引き込みながら巨大な勢力と化することができたのではないか?
ということだが、確かに興味深い推測ではある。(笑)

もちろん私はこの内容が事実かどうかは知らないし、
またどんな憶測をめぐらそうとも確かな答えなど見出すことはできないだろう。

しかしそれでも、これだけは言える確かなことがある。
それは、彼をメシアに仕立てたのは、他ならぬ私たちであるということだ。

これはメシアのための基盤云々と言う教義上の話ではない。
私たちの中にある、ヒーロー的な存在を望む集合意識が重なり合って、そこにメシアという存在をつくりあげてしまったということである。

教えを信じるなら、彼が条件を立てながら世の中を動かしていたかのように思うかもしれないが、実際に動かされていたのはむしろ彼の方である。
もちろんこれは深層意識の世界においての話だが、、、
私たちの思いに応えるように彼は登場し、そして立派にその役割を演じきったのだ。

今もし置かれた現状に不満があるなら、それをメシアのせいにしている限りは何も変わらないままだろうう。その現状を招いた本当の原因を認めない限りは、、、
つまり私がメシアを作り上げたということを。

でもしかし、私にはそんなこと身に覚えがない、、、
そう思われるだろうか?
ではあなたの中には、メシアの存在を願う思いなど全く存在しないとはっきり言い切れるだろうか?

メシアというのはここでは象徴であって、実際に思うのはメシアでなくても、
例えば、自分の中の劣等感をはらしたい、、、
人生上の責任や重圧から逃れたい、、、
権威ある人に自分の人生の面倒をみてもらいたい、、、
そんな逃避的とも依存的とも言える願望があなたの中にはないだろうか?

もしもこうした思いの存在を認めるならば、あなたも立派にメシアの存在をこの世に招いた一人なのだ。

それを認めた上で、これからもなお、あなたは自分の人生を人任せにするような生き方を続けるだろうか?それとも、、、
選択するのはあなた自身である。


話変わって、ここで新約聖書のことに触れるが、
以前にも何度かお伝えしたことだが、聖書に載せられた福音書の多くはキリスト教のその教勢を維持し発展させるために有効な福音書を主軸として編纂されたものであることはご存知だろうか?

しかしその聖書編纂の中で除外された福音書の中では、(つまりそうした教勢を拡大する意に叶わなかった福音の中には) 信者の自立を促すイエスの言葉が多く残されている。
その一つを紹介しよう。

「あなたがたが、自分自身を知るなら、そのとき、あなたがたは知られるだろう。そして、あなたがたは知るだろう。あなたがたが、生ける父の子らであることを。しかし、あなたがたが自分自身を知らないなら、あなたがたは貧困のうちにあり、そして、あなたがたは貧困である」(トマスの福音書より)

自分自身を知るとはすなわち自分の本質であり自身の内に宿る神を知るということである。

この福音書の言葉ひとつをとってみても、
本来イエスはイエス自身に繋がることではなく、一人ひとりが自分自身の内なる神に目覚めて自立してゆく道を説いていたのではなかったか?
きっとイエスは、人々が勝手に描いたメシアというドラマには無関心だったのだろう。

もしもこうした教えの方が人々に支持されていたならば、キリスト教という宗教は世に普及することもなかっただろう。同時に救い主メシアという概念も、、、

現在、この教会においては、これまで自分以外の人間 (すなわちメシア) に人生の権威を預けてきたことによる弊害、そのほころびがはっきりと表れて、すでに限界と思われる域にまで達している。

「あなたがたが自分自身を知らないなら、あなたがたは貧困のうちにあり、、、」

そんな今だからこそ一人一人が教義の枠を超え、自分の中にある本当の権威へと回帰することが求められているのではないだろうか?

「あなた方が、生ける父の子らであることを、、、」