『 あなたに 』



八月。蝉の鳴き声を何かの効果音とまず疑ってしまった。余りにもバーチャルな夏である。弁証法的な出逢いとしてあなたとの日々が在った事をわたしは確かに認める。シャルルド、という響きがとても心地良かったように、岐路でもない人生の平坦な時期に、あなたは風のような恍惚をくれた。固有の時間を帰属させる肉体がわたしにはもう無い。居ないのだ。憶えているのは知性の本性とも言うべくポーカーフェイスの裏側。わたしは何度も騙されかけ、やはり騙され、最後は故意的に騙されていた。声を押し殺してかくれんぼをしていただけ。どんなに押し殺しても漏れてしまう瞬間。わかるでしょう?薄目を開けた瞬間のあなたのサディスティックな眼を忘れることはできないわ。はじめて知った螺旋階段の意味は、目的ではなかった。早急に書き上げるためにあとがきと解説を読み漁っている。こんな悶えるような本の読み方を教えてくれたあなたは、まるで不良少年。そうよやっぱり少年だった。休憩のない労働を、息継ぎのないクロールを、ブランクのない詩を。享受でなく奉仕を好むあなたはわたしの欠如も欠落も欠陥も満たし満たしてついには溢れさせた。あなたは具象から抽象へと移ろうわたしのポエジーとなり、そして、今、いま。熱帯夜の孤独さえ愛おしく、あなたはわたしの、ひとつの原点となった。