Ⅲ.  カバー



 いつもいつも、その5分が間に合わない。そしてまた、遅刻魔というレッテルが貼られ、人は信用というものを失ってしまう。

毎朝、いい歳した女が、駅まで全速力で走るなんて。向かってくる車、追い抜いていく車。それから自転車族の群れからは、おそらくみっともなくて情けない姿、だということはわかっている。だけど、例え5分早く家を出たところで、私は走るだろう。いつどの瞬間から遅延になるかわからない都会の鉄道事情を知っている人間は、一つでも早い電車に乗りたがる。乗れるもんなら、一つでも、一分でも、一秒でも。


そして、今日も、あの車両の、南向きのあの位置へ。

今日も、会えるだろうか。


十中八九眠っているけれど、難しそうな病理学や生物学の本を抱えている、多分理系の、あの男の子。


今日も、ただ、あの人に、会いたい。



 小5の息子を起こすという儀式が、近頃では朝の一番のストレスになりつつある。だって本当に、本当に、起きないのだから。そもそも気持ち良くすやすやと、天使のように眠っている生き物を叩き起こすという行為は、どうも苦手である。たぶん、相手が子供でなくとも、多少の悪魔の心がないと、なんの躊躇いもなくそれを遂行するのは難しいと思うのだが。

 無論、息子はただの寝坊助ではなく、数ヶ月前から、関東で一番ハードだと言われる塾に通っており、昨日も20時まで授業、その後、質問教室で家に帰り着いたのは結局21時だったのだ。仕事から帰って、すぐ車に乗り換えて、塾の迎えに行く。そんな親としてもハードな生活が、あと2年は続く予定だ。

中学受験。そう、中学受験。他でもない母親の私が誘導した、中学受験だった。もちろん最初は面倒臭そうにしていたが、あの子は意外にも、この母の敷いた、母による母だけのギーギー煩いレールに、うまく乗ってくれた。


「ママ、俺、皮膚科医になろっかな。」


「はい?」


「どうせ勉強するんなら、めちゃくちゃ勉強して、医者になろうかなーって。」


「…ぎ。…そりゃ素晴らしいけど、いしゃぁ〜?!んで、なんでまた皮膚科?」


「だって、治っていく過程が“目に見える”方がやり甲斐あるじゃん。」



目に見えない世界ってあるんだよ


目に見えない世界を信じよう


大切なことは目に見えない



夫が殉職してから、この子に、そんな事ばかり言い続けて来た事を、私はこの時はじめて知る。なんの力もないくせに、なんの根拠もないくせに、「目に見えないもの」という言葉を、簡単に、無責任に、軽い気持ちで、使っていたのだと。



今日は一段と、分厚いテキスト。

『法医学・医事法』を、遺影を持つように抱えて、項垂れて眠っている。


いつからか、若いあなたに、息子の未来を重ねていました。


息子の代わりに、ぐっすり眠ってくれて、

息子よりも先に、医者という道を拓く、あなたに。


あなたは、あの子の未来なのに、


どこか懐かしい。



今日のあなたの寝顔に安心しながら、

毎日開く、朝の読書会。


本日は、マラルメの本を。


列車の継ぎ目横の三人掛けのこの定位置は、私たちだけの空間だったのに。


半年程前。



駆け込み乗車ギリギリに乗り込んだ先には、いつもの“私たち”の空間に、見かけない母親集団が屯していた。


私は、まぁこんな日もあるかと、仕方なく入り口付近の角に収まって立ち、その会話に背を向けるように、不本意に傍聴していた。


「知ってる…?クラスの井澤くん。小学生の全国模試で、算数も理科も全国一位だったんだって!」


「へ〜!一位はすごいよね、やっぱり。受験とかするのかしら。」


「するわけないじゃん!ほら、あそこ、離婚されてシングルで、養育費も貰えずに塾も辞めちゃったんだって。」


「…かわいそうにね。子供は何も悪くないのにね。」


「ほんとだよ〜。シングルじゃあ、中受はきびしいよね。」



私は思わず、小さな次の駅で降り、はじめて降り立つその駅のホームを、嘔吐する様な姿勢で何とか移動すると、一番端のベンチに座り、ひとしきり泣いた。


その日はちょうど、夫の祥月命日だったのだ。


その日の昼休み。

私は、誘い方がしつこくて距離を置いていた仕事絡みの男友達の会社に行き、彼に頭を下げ、一度は断ったローカル雑誌の連載の仕事を丁重に引き受ける約束を取った。


そして夜には。

都内で一番高くて、一番合格率の高い中学受験塾の見学に、予約もせず乗り込んでいた。