『 静かな殺戮 』



火を放つ 引き金を引く

拳を振り下ろす 顔面を沈む


気持ちまではわかる

わかるよともし

詩人が言ってしまえば


それというのはただ理性の

そして行動力の

まさか単にその有無だけの問題となり

正しい生も真っ当な死も奪う

愚かな攻撃との僅差に陥ってしまう


そうではない

そうではないだろう

詩人は探さなければならない

対岸に凛として立ち向かうべく

斧のような盾の言葉を


隣に肩を並べ

ささやくような言葉では

誤った狂気を

弱者の憤死を救えないのだ


叫べ 対岸の

静かな殺戮に


静かなるものにこそ





『 居もしない対岸の静かな読者 』


時折どころか私はいつも想っているのだ。その静かなひとのことを。恋だの愛だの性だの能天気な作品を挙げるたび。これを今病床にいる人はどう思うか、身体の不自由な人は。

海外だの旅行だの幸せな日常だの夫だの子供だの。

今日明日をカツカツで生きる貧しい人は、シングルの人は、子供に恵まれない人はどう思うのだろうか、と。

だけどその対岸への想いは一切出さないようにしている。思い遣ることは恐らく烏滸がましく、想い遣る方が充分に失礼なことを知っているからだ。だが、いつもいつも頭の片隅では、そうではない方々の、架空の読者の心のその只中に、想いを馳せてしまう。せめて、傷つけたくはない。どんなに良い作品が出来ようと、それが万が一にも多少の評価を頂いたとしても、遠い誰かを無意識に傷つけるような作品であるならば、即座に、寸分の迷いもなく引っ込めて、鍵のかかる引き出しに仕舞おうと思う。

無論読み聞きするものは選ぶ者の自由であるのだが、独りよがりの自己表現の産物を、不特定多数のひとがうっかり目にしてしまう場に晒すという事には、プロ云々以上に、いや素人だからこそ責任を持たねばならないと思っている。

居もしない読者の沈んだ目を、私は畏れている。そう、その人を笑顔にする力などない私が、傷つける武器は持っているのだ。そういう、ある人からするとちゃんちゃら笑ってしまうような、不思議な、真面目な感覚だ。

それでも、たった一人で作品を作り続ける事は、もう限りなく不可能になった。読んでくれるひとが、どうしても欲しい。このブログも繰り返し訪れて下さる方が一人でもいらっしゃるという事実は、本当に励みになっている。専門家の方々は、現代詩がどこへ向かうのか等と、今日も荘厳な舞台で対談を交わすであろう。

だが少なくとも私はどこへ向かうつもりもなく、逆に追い続けている。色んな方向へあてもなく逃げ舞おうとする心を、留めて捕まえるのに夢中である。

そうだ、あの感覚と同じだ。

シャボン玉🫧をつかまえようと振り回されながら、弾ければまた新しいものを吹くし、手の上に乗ればしばらくずっと見つめている。そして捕まえた心に一つ一つ名付けをするような、それが私の詩作だ。寿限無はなんだかんだ面倒だから、名前は短いものに限る。そんな風に無意味な、だけど楽しい、休日の営みがここにある。日々休みなく継続する様な、トレーニングや朝活やライフワークのようにストイックで忍耐強く、立派な人間様の営みともまた違う。

私はやはり、偽物だという事だろう。その自覚はある、残念なことに。