【 箱男の周辺 】


 先だって安部公房が今年生誕100周年を迎えた事はすでに書いた。生きていたら、100歳。それだけの事ではあるのだが。

曲がりなりにも芥川の研究者である恩師に多大なる評価を頂いた以上、今年は何かにつけやはり礼節として安部公房を絡めて当ブログを発信していきたいと思っている。

何者でもない私の戯言ではあるが、未だにどんな研究者の論文や評論を読んでも稚拙だな、甘いな、と思える程、悪いが『箱男』のみに関しては研究を重ねたつもりであるので、読者の方には少しだけお付き合い願いたいものだ。




『箱男』の論文執筆の際に、様々な大学から文献を取り寄せたわけであるが、個人的には『箱男』のトリックを読み解く為の一番の良書はこの一冊であると二十代の頃から確信している。


では特段、『箱男』について語りたいことがあるかと言えば全くもってそうでもなく、2018年の“ポエム500”に於いて私が詩論で触れた事象のみであっさり事は足りた。


詰まるところ、一周まわってこれは安部の“小説”に過ぎないのだから、あれこれ論じようと正論などなく、正解ならば作者安部以外知り得る訳もなく、新旧他のポップなそれとさえ等価で、読み取り方というものは至って自由であるのだ。


なので今般は、

私がこの『都市への回路』の中で、好きな一節をただただ紹介する事とした。


恐縮ながら、私の拙作『ライチ熱』の構造がどの様に『箱男』を模していたのかも、少しだけヒントになれば幸いである。


さんざん嘘を書いて、その嘘が一つの世界を構築したら、その世界の中ではそれが真実



であるということでなければ

いけないと思う



小説を書くという衝動の根源には、まず読むという衝動がある。「われわれはなぜものを書くか」という問いの前に、まず「なぜ読むのか」という問いが要る。

作者というものは、つねにその内側に読者というものを含んでいる。読者としての自分が、自分の中に作者を再生産していくということがある。



現代文学、新しい文学と言われるものが持っている一つの弱点は、「なぜ読むのか」という問題が、ちょっと足りないのではないか

何らかの形で読者に新しい関係づけ、位置づけを与える力を持ったものでなければ作品とは言いがたい。(中略)良き作者は、その前につねに良き読者でなければいけない



音楽というのは、完全にアナログであって、右の脳で聞いているらしい。文学は完全にデジタルで、左の脳で読んでいる。

音楽というものは本来無意味なものなんだ。アナログ的なものだからね。価値がないんじゃない、それ自身で十分に自立した価値がある



音楽は、現在進行形で、その瞬間にしか存在しないからなんだ。

文学は、読み終っても関係が残るから、繰り返して読むということはあまりない。ここに本質的な違いがある



『箱男』という小説は、覗き、覗かれる視線のドラマとして読むこともできるわけです

覗きという行為は、要するに人称の入れ替えなんだ。見るということはたいていは一人称だ。ところが、覗くと一人称でなくなる、つまり人称がなくなる。三人称ではないが擬似三人称化されるんだ。ところで、小説というのは本来覗き的なものだ。とにかく作者が三人称で書くんだからね。まさに覗いている人のポジション



セックスにはそういう精巧な人間関係を破壊して原始に引戻す力がある。

セックスがいぜんとしてタブー



文学というものは、(中略)自己矛盾の仕事なんだ。文学はものすごく苦しい作業でなければならない

音楽家がストレートにアナログに到達できるのに小説家は苦しい廻り道をしなければならない



みずから絶え間なく物語を崩壊するという形をとっている。

読者はあるいは読みづらかったかもしれない。読者にとって読みやすい作品をつくることも、もちろん必要なことだと思う。しかし、読みやすさのためだけで、方法は選べない。



人間は、無理に独房にでも入れられない限りは、社会に属しているわけで、属しているからこそ、社会からの離脱という発想も生まれてくる

自己を見つめるというのはとても深い意味があるように見えるけれども、鏡でもない限り自己はなかなか見つめられない。やはり他者というものを媒介にして、自己というものが意識されてくると思います。



はさみ込みの写真は、とくに内容とは関係がない。

本文が肉声による歩行だとすれば、写真は視線による歩行である。





なぜ、『箱男』の周辺を語るこの本のThemaが、「都市への回路」なのか。箱男が段ボール箱をスッポリ被って暮らしていたのが田舎でなく大都会だったから、だけとは限らない。

安部公房は都市的なものに対して、当時にしてみれば非常に珍しく肯定的な人物で、前衛的な思考をしていた。おそらく、近現代の人間の営みというものの本質を都市に見ており、大自然と相反するという視点ではなく、自然の一部としての人間を見ていたのではなかろうか。

本書の強みは無論、これが誰かの評論ではなく、安部本人に拠り語られた内容である、という点に外ならない。


好きな文豪というのは、不思議なことに

皆とっくに死んでいて

微妙な年表のズレが、もどかしくも残念である。


だが、生きていれば、100歳。

長生きさえしていてくれたなら、私だって今頃、安部と同じ世界を生きていたのに。


優れた文豪はこうして

答えではなく問いを遺して去ってゆく。


すべからく無口な本にのみ

今日も推し活を施さなければならぬが、

文学とは その静けさが非常に心地良く

それでいて時折 嵐が鳴る瞬間が、

どうしようもなく、愉しい。



箱の中で暮らすとはどういうことか

見る⇆見られる

贋物⇆本物

書いているつもりが書かれている

書かれずに書いている自己を書く

登録

匿名性

脱出

…………



名前を欲しがる奴は必ず

次の章では匿名性に憧れている

ニセ詩人は社会的に見れば

十二分に本物であると気づくのだ。



それではまた、

……ごきげんよう。