老荘思想 | ことばのいろは

老荘思想

親の介護・自分の老後・福祉・医療・少子化問題について考えると、現実に基いた客観的な思考と、「こうあったらいいな」というリベラルな思考とのギャップに、日々、苦しんでいるheisenbergです。


自分の親には何時までもボケないで元気でいて欲しいとは、多くの人が思っていることです。しかし、よく考えると少子化の影響で、夫婦では9割が共働き、定年は65歳がスタンダードな世の中になってきています。

このため、親が歳をとって自分の身の回りのことがだんだんと出来なくなり、その世話を子供世代にしてもえるようになるには、20歳で子供を儲けて85歳、30歳で供を儲けて95歳まで待たなければなりません。


自分の祖父母の代には、結婚した女性の殆どが専業主婦であったし、同居世帯が多かったので、大概の人は定年とともに楽隠居・・・というのがパターンでした。しかもその世代は兄弟の数が多いので、年寄りの介護をスルーできる人達が多かったのです。


ところが我々の世代になると、兄弟の数の平均が2人を割っていますから、大抵の人が1組~2組の両親のお世話を割り当てられています。しかし我々の世代は、医療・年金の保険料や税金の割り当て金額が上がっているため、共働きでないと生活が成り立たないようになってきています。

つまり、生活資金に余裕のない場合には、自分たちが生きていくためには、物理的に親を見捨てざるを得ない人たちが増えています。


自分の家系は代々長生きで、曾祖母も其の上も90歳近く生きました。だから、ボケて徘徊をはじめると、家の人たちが仕事が出来なくなるので、格子をつけた部屋を特別こしらえて、そこに閉じ込めて仕事に行ったのだそうです。今なら、人権問題にされるでしょう。


自分の身内で、長い介護の必要な人を、子供の時からずっと見てきていて、どうして日本の社会は人の生をほっといてくれないのかと、思います。

障害者にしてもそうです。自立といいながら、健常者に介護を強いたりします。


弱者を手厚く扱いたくても、そうは出来ない社会情勢になっている。しかし、人口比率でも、議員のなかでも団塊の世代以上が圧倒的に多いために、無理な状況をあたかも可能であるがごとく、事実をねじまげています。


ちなみに、自分は「孤独死」が理想です。



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老子の一節

天地は不仁、万物を以て芻狗(すうく)と為す

聖人は不仁、百姓をもって芻狗となす。 (老子・5章)


(注釈):「芻狗(すうく)」というのは儀式のときに祭壇に捧げられる藁で作った犬の人形。祭りがすんだら、捨ててしまう。天地は自然のこと。不仁は、思いやりがないこと。


自分的解釈: 「弱者は、政治に期待するな」・・・は、一定の真理を含んでいると思います。



荘子の一節 (漁夫篇)

人、影を畏れ、迹(あと)を悪んで之を去(す)てて走る者有り。足を挙ぐること愈々(いよいよ)数々(しばしば)にして、迹(あと)は愈々(いよいよ)多く、走ること愈々(いよいよ)疾やかにして、影は身を離れず。自らを以て為(へ)らく尚ほ遅しとなし、疾(と)く走して休まず、力を絶ちて死せり。陰に処(お)りて以つて影を休(や)め、静(せい)に処(お)りて以つて迹(あと)を息(や)むるを知らず。愚も亦(また)甚(はなはだ)し。


(意訳):ある人が自分の影をこわがり、自分の足あとのつくのをいやがった。影をすててしまいたい、足あとをすてたい、それからにげたいと思って、一所懸命ににげた。足をあげて走るにしたがって足あとができていく。いくら走っても影は身体から離れない。そこで思うのには、まだこれでは走り方がおそいのだろうと。そこでますます急いで走った。とうとう力が尽きて死んでしまった。この人は馬鹿な人だ。日陰におって自分の影をなくしたらいいだろう。静かにしておれば足あともできていかないだろう。



儒教や西洋哲学では、人間の自律的、自発的な行為に意義を認め、またそれが有効であり、人間の持つ理想を実現する見込みがあると考えるのに対して、老子や荘子は、自然の力は圧倒的に強く、人間の力ではどうにもならない自然の中で、人間はただ右へ左へ振り回されているだけだ・・・という「自然無為」の処し方を説いています。

キリスト教の「王権神授説」「博愛主義」「原罪」とは違った、物事の道理をそこに感じませんでしょうか?