松下幸之助『道をひらく』を読む(50)くふうする生活 | 池内昭夫の読書録

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本を読んで思ったこと感じたことを書いていきます。

 とにかく考えてみること、くふうしてみること、そしてやってみること。失敗すればやりなおせばいい。やりなおしてダメなら、もう一度くふうし、もう一度やりなおせばいい。

 同じことを同じままにいくら繰り返しても、そこには何の進歩もない。先例におとなしく従うのもいいが、先例を破る新しい方法をくふうすることの方が大切である。やってみれば、そこに新しいくふうの道もつく。失敗することを恐れるよりも、生活にくふうのないことを恐れた方がいい。(松下幸之助『道をひらく』(PHP研究所)、p. 52)

 社会の慣例や慣習に従うことは最も安全で安心な方法だ。が、時は流れ、時代は変化していく。だから、ただ慣例や慣習に安住していては時代遅れになってしまう。つまり、時代と共に、変えるべきは変える、変わるべきは変わらなければならないということだ。

 そのやり方の1つが、「工夫を凝(こ)らす」ということなのだと思う。大きく変えるわけではない。ちょっと変えてみる。それが「工夫」ということの意味だ。

 「ルカによる福音書」に言う。

 小事(しょうじ)に忠実な人ひとは、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である(16:10)

と。

《人間の真の誠実は、たとえば礼儀正しさと同じように、小さなことに対するその人の態度にあらわれる。これは、ある道徳的基盤から生ずるものであるが、これに反して、仰山らしい誠実は、ただその人の習慣とか利口さにすぎないことが多く、まだそれだけでその人の性格を明らかにするものではない》(ヒルティ『幸福論 第2部』(岩波文庫)草間平作・大和邦太郎訳、pp. 99-100)

 これを受けて、安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏は言う。

《選挙演説会で国民大衆に大げさな正義を主張したり、時局に便乗してたくみに事新しく筆陣を張るものがあったとて、よめゆめ偉い人かと迷わされてはならぬ。その人の何でもない日用尋常の言動によく注意をしよう。案外化猫や古狸の正体が何でもない事にチラチラばれるものである。偉大な修行などというと、どんな奇抜な人間離れしたことをするかなどと思う間は、まだ何をわかっておらぬのである。尋常日用の工夫に徹するのが大修行なのである。

 大いに悟りを開こうと思って、まず仏という偉大な者の秘儀をつかもうとあせっておる僧に、趙州(じょうしゅう)和尚(おしょう)は答えた、朝飯は食ったか。はい、いただきました。ならば食器をよくかたづけなさいと》(安岡正篤「百朝集」(福村出版)36 小事と人格、p. 81)》

 われわれの祖先が、1つ1つくふうを重ねてくれたおかげで、われわれの今日の生活が生まれた。何気なしに見のがしている暮らしの断片にも、尊いくふうの跡がある。茶わん1つ、ペン1本も、これをつくづくと眺めてみれば、何というすばらしいくふうであろう。まさに無から有を生み出すほどの創造である。

 おたがいにもう一度考え直そう。きのうと同じことをきょうは繰り返すまい。どんな小さなことでもいい。どんなわずかなことでもいい。きのうと同じことをきょうほ繰り返すまい。多くの人びとの、このわずかなくふうの累横が、大きな繁栄を生み出すのである。(松下、同、p. 53)