松下幸之助『道をひらく』を読む(48)なぜ | 池内昭夫の読書録

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こどもの心は素直である。だからわからぬことがあればすぐに問う。“なぜ、なぜ”と。(『道をひらく』(PHP研究所)、p. 46)

 子供が「なぜ」「なぜ」と問うのは、心が素直だからというよりも、知的好奇心が旺盛だからだろう。なぜなのかその理由を知りたいから「なぜ」と問うのだ。そこには「知的欲求」がある。分からないことが分かったときの歓(よろこ)び。それこそが「なぜ」と問い続ける原動力なのだ。

 こどもは一生懸命である。熱心である。だから与えられた答を、自分でも懸命に考える。考えて納得がゆかなければ、どこまでも問いかえす。“なぜ、なぜ”と。(同)

 子供は、「考える」ための思考回路が未成熟だから、物事を論理的に考えるわけではない。つまり、「なぜ」に対して論理的な答えを期待しているわけではないということだ。問題なのは、説明が分かるか分からないかだけである。納得できるかどうかは、もっと感覚的なものではなかろうか。

 こどもの心には私心がない。とらわれがない。いいものはいいし、わるいものはわるい。だから思わぬものごとの本質をつくことがしばしばある。こどもはこうして成長する。”なぜ“と問うて、それを教えられて、その教えを素直に自分で考えて、さらに“なぜ”と問いかえして、そして日一日と成長してゆくのである。(同)

 子供は無邪気である。だから、大人なら踏み込まないところ、踏み込めないところに踏み込める。だから、時として、子供だからこそ大人には見えないことが見えるといったことが起こるのだ。が、それは素直に考えた結果というのとは少し違うように思う。

 それは「思考」の結果というよりも「感性」の問題なのではなかろうか。どうしても大人は物事を論理的に考えがちである。結果、「感性」が鈍る。だからこそ、大人は山に登り、庭園を散策し、美術館を巡って、鈍った「感性」を取り戻そうとするのだ。が、それでも子供の無垢の「感性」にはなかなかもって適(かな)わない。

 大人もまた同じである。日に新たであるためには、いつも〝なぜ″と問わねばならぬ。そしてその答を、自分でも考え、また他にも教えを求める。素直で私心なく、熱心で一生懸命ならば、“なぜ”と問うタネは随処にある。それを見失って、きょうはきのうの如く、あすもきょうの如く、十年一日の如き形式に堕(だ)したとき、その人の進歩はとまる。社会の進歩もとまる。

 繁栄は“なぜ”と問うところから生まれてくるのである。(『道をひらく』(PHP研究所)、pp. 46-47)

 日本は、山紫水明、花鳥風月、「感性」を磨くための宝庫である。この豊かな自然に触れることで、私たちは、日常生活によって鈍麻(どんま)してしまった「感性」を取り戻すことが出来る。有難いことである。