松下幸之助『道をひらく』を読む(37)生と死(その1) | 池内昭夫の読書録

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 人生とは、一日一日が、いわば死への旅路であると言えよう。(『道をひらく』(PHP研究所)、p. 30)

 人間は必ず死ぬ。だから「人生は死への旅路だ」と言っても間違いではない。が、表立ってそう言う必要もまたない。

 「死」は、「忌(い)み言葉」である。だから日常的な言葉のやり取りにおいて、「死」という言葉は出来得る限り避けられる。勿論、その言葉を用いざるを得ないこともあろう。要は、時と場合による。

 哲学者田辺元(たなべ・はじめ)は言う。

《西洋には古くからメメント モリMemento mori(死を忘れるな)というラテン語の句がある。ふつうには、例えば髑髏(しゃれこうべ)のごとき、人に死を憶い起させるものを指してかく呼ぶのであるが、しかしその深き意味は、『旧約聖書』「詩篇」第90第12節に、「われらにおのが日をかぞへることを教へて、知慧(ちえ)の心を得さしめたまへ」とあるのに由来するものと思われる。

けだし人間がその生の短きこと、死の一瞬にして来ることを知れば、神の怒りを恐れてその行を慎み、ただしく神に仕える賢さを身につけることができるであろう、それゆえ死を忘れないように人間を戒(いまし)めたまえ、とモーゼが神に祈ったのである。その要旨がメメント モリという短い死の戒告に結晶せられたのであろう》(「メメント モリ」:『現代日本思想大系23 田辺元』(筑摩書房)、p. 328)

 言ってみれば、「死」を憶(おも)うことで「生」を充実させよということだ。

《今日の人間は死の戒告をすなおに受けいれるどころではなく、反対にどうかしてこの戒告を忘れ威嚇を逃れようと狂奔する。戒告を神に祈るなどとは思いも寄らぬ、与えられる戒告威嚇の取消しを迫ってやまないのである。たとえば毎日のラジオが、たあいない娯楽番組に爆笑を強い、芸術の名に値いせざる歌謡演劇に一時の慰楽を競うのは、ただ一刻でも死を忘れさせ生を楽しませようというためではないか。

「死を忘れるな」の反対に「死を忘れよ」が、現代人のモットーであるといわなければなるまい》(同、p. 329)

 「死」を恐れるがあまり、「死」を直視することから逃げ、意識の外に追いやろうとすればするほど、「生」は目標を喪失し空虚になる。そして現代は、この「空虚な生」を充実させようと、「死の舞踏」(danse macabre)に明け暮れているかのようである。

 熱狂は一時的なものであって、すぐに冷めてしまう。いくら馬鹿騒ぎしても「空虚な生」は空虚なままであって、生は充足されないのだ。