松下幸之助『道をひらく』を読む(35)是非善悪以前 | 池内昭夫の読書録

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 この大自然は、山あり川あり海ありだが、すべてはチャンと何ものかの力によって設営されている。そして、その中に住む生物は、鳥は鳥、犬は犬、人間は人間と、これまたいわば運命的に設定されてしまっている。

 これは是非善悪以前の問題で、よいわるいを越えて、そのように運命づけられているのである。その人間のなかでも、個々に見れば、また1人ひとり、みなちがった形において運命づけられている。生まれつき声のいい人もあれば、算数に明るい人もある。手先の器用な人もあれば、生来不器用な人もある。身体の丈夫な人もあれば、生まれつき弱い人もいる。いってみれば、その人の人生は、90パーセントまでが、いわゆる人知を越えた運命の力によって、すでに設定されているのであって、残りの10パーセントぐらいが、人間の知恵、才覚によって左右されるといえるのではなかろうか。(『道をひらく』(PHP研究所)、pp. 26-27)

 最近流行(はや)りの言い方をすれば「親ガチャ」である。親ガチャとは、生まれもった容姿や能力、家庭環境によって人生が大きく左右されるのに、選びたくても親は選べないということだ。人は、生まれもって個性という名の様々な優劣、良し悪しをもって生まれてくるのだ。

 『荘子』に、「無用の大木」の話がある。

《匠石(しょうせき)は家に帰った。すると礫社(れきしゃ)の大木が夢のなかに現われて、告げた。

「お前は、わしをいったい何に比べようとするつもりかね。わしを役にたつ美しい木に比べようとでもするつもりか。それならいってやろう。すべて柤(こぼけ)・梨(なし)・橘(たちばな)・柚(ゆず)、さては瓜の類にいたるまで、その実が熟すると、もぎとられて辱(はずか)しめを受ける。しまいには大枝を折られ、小枝はひきちぎられる始末だ。これらはすべて、なまじっか役にたつ能力をもっているために、自分の生命を苦しめるものなのだ。だからこそ、天寿を終えないで途中で若死にし、世間の俗人どもに打ちのめされることにもなる。世間の万事、すべてこれと同じだ。

 それに、わしは久しい前から、ものの役にたたなくなることを念願としてきたのだが、死に近づいたいま、やっとかなえられて、大用――つまり無用の存在となることができたのだよ。もし、わしが有用だったとしたら、このように大きくなれなかったにちがいない。

 そのうえ、お前とわしとは、物であることに変わりがない。わしだけを物あつかいにすることは、やめてもらいたい。お前のような死にそこないの散人(ろくでなし)に、散木のわしのことがわかってたまるものか」(「荘子」14:『世界の名著4』(中央公論社)森三樹三郎訳、pp. 230-231)

 せっかく実らせた実は美味しいからともぎ取られ、せっかく広げた枝は綺麗だからと折られてしまう。美しいのは美しいなりの苦労もあるのだ。

 これもまた是非善悪以前の問題であるが、こういうものの見方考え方に立てば、得意におごらず失意に落胆せず、平々淡々、素直に謙虚にわが道をひらいてゆけるのではなかろうか。考え方はいろいろあろうが、時にこうした心境にも思いをひそめてみたい。(同、p. 27)