松下幸之助『道をひらく』を読む(23)志を立てよう(その4) | 池内昭夫の読書録

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19 志学之士。当自頼己。勿因人熱。准南子日。乞火。不若取燧。寄汲。不若鑿井。謂頼己也。― 佐藤一斎『言志耋録(げんしてつろく)』

学に志(こころざ)すの士は、当(まさ)に自ら己(おのれ)を頼むべし。人の熱に因(よ)ること勿(なか)れ。准南子(えなんじ)に日(い)わく「火を乞(こ)うは、燧(すい)を取るに若(し)かず。汲(きゅう)を寄するは、井を鑿(うが)つに若かず」と。己れを頼むを謂(い)うなり。

(学問に志して、人格を磨き上げようとする者は、頼む者は自分自身であると覚悟しなければならない。かりにも他人の熱を頼って暖めてもらうことなど思ってはならない。『准南子』に「火を他人に乞い求めるよりは、自分で火打ち石をうって火を出す方が宜(よろ)しい。また、他人の汲(く)み水をあてにするよりは、自分で井戸を掘る方が宜しい」と書いてある。このことは、自分自身を頼れということである)― 『言志四録(4)言志耋録』(講談社学術文庫)川上正光全訳注、pp. 27-28


 一度(ひとたび)学問を志し、人格を錬磨せんとする者は、孤高だ。学問の追求とは、自分との終わりなき戦いである。その覚悟が必要なのだ。

 『論語』に

子日、吾十有五而志干學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。―『論語』為政第2

子日はく、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従へども矩(のり)を踰(こ)えず。

(わしは15の年に人格完成の学に志した。断えず修業したので30の年には、内は私慾に揺(うご)かされず、外は誘惑に侵されず、固く自ら守って動かないようになった。

更に10年の修業を積んだので、40の年には、道理が明らかに知られて、いかなる事変に出遇っても疑い惑うことがないようになった。

更に10年の修業を積んだので、50の年には天が万物に与えた最善の原理を知るようになった。

更に10年修業を積んだので、60の年には、人のいうことを聞けば直ちにその理を了解するようになった。

更に十年修業を積んだので、70の年には、心のままに行動しても礼儀や規則などに外れることがないようになった)―宇野哲人『論語新釈』(講談社学術文庫)、pp. 38-39


とある。宇野氏は、<学に志す>の<学>は「大学にある明明徳、親民、止至善をいう。人格完成の学である」と注釈されている。ここで言う<学>は、学生が勉学に励むというような軽い意味ではないということに注意が必要だ。