松下幸之助『道をひらく』を読む(21)志を立てよう(その2) | 池内昭夫の読書録

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眞に志を立てて己れを益し人に益せんとの心なれども、偶々(たまたま)正學を知らず、曲學を主とする者あらば、豈(あ)に一槪に是(これ)を非とすることを得んや。叉其の學ぶ所正學に似たれども、其の志却(かえ)つて名の爲めにし利の爲めにする者ならば、亦(また)豈一槪に是れを是とするを得んや。

然(しか)れば學を言ふは志を主とす。其の曲と正とに至りては第二義に落つるなり。是れ孟子古樂(こがく)・俗樂の說なり。(「講孟餘話」第5場 7月2日:『吉田松陰全集第3巻』(大和書房)、p. 45)


(真に志を立て、自身を益し人をも益しようとする心ではあるが、正学を知る機会がなく、曲学を専(もっぱ)らとして修めているとした場合、これを一概に誤っているとすることはできない。反対に、その人物が学んでいるところは正学に似ているが、その志を見ると、かえって名誉を得るため、利益を得るためであったならば、この人物もまた一概に正しいとすることができない。

以上から見て、学問を問題にする場合には、それを修めている人物の志がどこにあるかを眼目とせねばならない。その学問が、曲学か正学かという問題に至っては、第二義でしかないのである。これが孟子のいう、古楽・俗楽の説である)― 『講孟劄記(こうもうさつき)』(講談社学術文庫)近藤啓吾全訳注、pp. 68f

今や文敎興隆、正學世に明かなり。士孔孟の言に非ざれば口に稱せず。五尺の童子も管(かん)・晏(あん)を言ふことを恥づ。

吾れ諸君と此の世に生れ、正學に從事することを得、實に大幸と云ふべし。然(しか)れども志を立つること眞ならざれば、名は正學なれども實は曲學にも劣るべし。

事舊(ふ)りたれども、子としては孝に死し、臣としては忠に死し、仰(あお)いでは 皇國の大恩に報じ、俯(ふ)しては一身の職分を盡(つく)さんと、日夜に志を勵(はげ)まして學を勤めば、其の正學たるに負(そむ)かずと云ふべし。― 「講孟餘話」、pp. 45-46

(今や学問教育が盛んとなり、正学は世に明らかである。されば士たるもの、孔子・孟子のことばでなければ口にせず、少年すらも、管仲(かんちゅう)・晏嬰(あんえい)のごとき功利家のことをロにするのを恥じている。

わたくしは諸君と、この現在の世に生れ、正学を修めることができ、実に大幸であると考えている。しかしながら、志を立てることが正しくないならば、修めている学問の名称は正学であっても、実は曲学を修めるのにも劣るであろう。

旧臭いことだが、子としては孝に生命をなげ出し、臣としては忠に生命をなげ出し、仰いでは、皇国の大恩に報い、俯(ふ)しては一身の為(な)すべき道に全力を挙げようと、日夜怠らず志を励まして学問に勤めたならば、わが学ぶところの正学に背(そむ)かぬ態度だということができる)― 『講孟劄記』、pp. 68-69

孟子嘗(かつ)て云はく、「五穀も熟せざれば荑稗(ていはい)に如(し)かず」と、思はざるぺけんや。

抑々(そもそも)志さへ眞なれば曲學にても、一槪に非とすべからずとは雖(いえど)も、世に志ありて曲學に陷る者あらば、吾れ手を把(と)りて正學の途(みち)に進めんと欲するは固(もと)よりなり。

是れを以て又孟子樂(がく)を論ずる言外の旨を領(りょう)すべし》― 「講孟餘話」、p. 46

(孟子はかつて、「よい穀物も成熟しないならば、まずい稗(ひえ)にも劣る」といっている。このことをよく考えねばならない。

それはさて措(お)き、自己の志さえ真実であるならば、その修めているところが曲学であっても、一概に誤りであるとしてはならぬとはいうものの、世の中を救おうという志を持っていながら曲学に陥っている人物があったならば、わたくしは手をさし延べてその人を正学の途に進ましめたいと望んでいることは、もちろんである。

以上のことから、孟子が音楽を論じていることばの裏に込められている主旨をも、領解すべきである)― 『講孟劄記』、p. 69