松下幸之助『道をひらく』を読む(8)道(その8) | 池内昭夫の読書録

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《道はあらゆる事物が依(よ)つて以(もっ)て存立活動する究極的なものであるから、もとより相體(そうたい)的な何ものでもない。之(これ)を視ても見えぬものは「夷(い)」と名づけ、聽いても聞こえぬものは「希(き)」と名づけ、搏(とら)へても得られぬものは「微(び)」と名づける》(安岡正篤『老莊思想』(福村書店)、p. 40)※『老子』第14章参照

《然(しか)し道はそういふ人間一切の知覺を絕した渾然(こんぜん)たる一者で、結局何物でもない物――無物に外ならない。その在りやうは「無狀の狀」「無物の象」ともいふべく、「恍惚(こうこつ)」といつてもよい。

一般の空間性時間性の經驗を超越した何とも表現しやうのないものである。何とか相體的に表現せられるやうなものは道ではない。眞の表現は無表現の表現である。その意味に於(おい)て道は「無」である。現象界の經驗ではあらゆる物が常に何らかの「有」から生ずるが、その有は究竟(きゅうきょう)「無」から生ずるのである》

 もう一度、『老子』第1章を見てみよう。

《「道」が語りうるものであれば、それは不変の「道」ではない。「名」が名づけうるものであれば、それは不変の「名」ではない。天と地が出現したのは「無名」(名づけえないもの)からであった。「有名」(名づけうるもの)は、万物の(それぞれを育てる)母にすぎない。

まことに「永久に欲望から解放されているもののみが『妙』(かくされた本質)をみることができ、決して欲望から解放されないものは、「徼(きょう)」(その結果)だけしかみることができない」のだ。この2つは同じもの(鋳型)から出てくるが、それにもかかわらず名を異にする。この同じものを、(われわれは)「玄」(神秘)とよぶ。(いやむしろ)「玄」よりもいっそう見えにくいもの(というべきであろう。それは)、あらゆる「妙」が出てくる門である》(「老子」:『世界の名著4 老子・荘子』(中央公論社)小川環樹訳、p. 69)


 「玄」は、「奥深くて明かりの及ばない所の色」が原義。これが「奥深い道理」という意味へと派生した。この「玄」に、具体的な「時処位」という光が当たることで、「道」が生じる、というのが私の解釈である。

《道はあらゆるものを容れて盈(み)つるといふことのない「冲(むな)」しいものであるが、それは單なる空虛、言はゞ幾何學的空間のやうなものではなく、一切に遍滿(へんまん)圓通(えんづう)してゐる全體(ぜんたい)生命であり、之(これ)に依(よ)つて相對(そうたい)界の生成化育、陰陽交感の作用が行はれる。之を「沖氣(ちゅうき)」といふ。この創造の作用から見れば、道は實に永遠に疲れ衰へるといふことのない根源的母胎、不可思議な母性――玄牡(げんぴん=牡牛)である》(安岡、同、pp. 40f)※『老子』第15章参照