伊福部氏は、「譯後私論」として次のように書く。
《この冒頭の原文は道可道、非常道、名可名非常名となつて居りますが、魏(ぎ)の王弼(おう・ひつ)がここに「道とすべきの道、名とすべきの名は、事を指し、形を遺す。其の常に非ずる也。故に道とすべからず、名とすべからざる也」と註(ちゅう)して以來、今日まて和漢すべての老子學者がこの間違ひを受ついで來てゐて、ここの譯讀(やくどく)を、
(1)道の道とすべきは常の道に非ず、名の名とす可きは常の名に非ず
(2)道の道ふ可きは常の道に非す、名の名つくべきは常の名に非ず
(3)道の道びく可きは常の道に非ず、名の名づくべきは常の名に非ず
(4)道の道るべきは常の道に非ず、名の名とすべきは常の名に非ず
等とし、老子がここで常道、常名なるものを主張してゐると受取つて來てゐるのでありますが、これはとんてもない間違ひで、老子はここで、常道、常名といふやうなものがあると考へる先王孔子派等の考へが間違いで、そんなものはないと言ふてゐるのであります》(伊福部隆彥『現代譯 老子』(秋森社版):国立国会図書館デジタルコレクション、p. 72)
伊福部氏の解釈は、簡明直截(かんめいちょくさい)である。一方、孔子派の解釈は、わざわざ議論を難解複雑にし、自説に引き入れようとしている不自然さがある。
安能務(あのう・つとむ)氏の意見を見てみよう。
《――道可道非常道――
老子の「道徳経」で、開巻第1貢の冒頭を飾る言葉である。つまり老子は「道」とは何で「徳」とは何かを解く書物(経)で、開口一番にそう言った。
わずかに6文字の句で、字面を見れば、いかにも簡単な言葉である。だが、どっこいそうはいかない。大方の例に倣って、それに読み下だしを付けることは容易である。
「道の道たるは常の道に非らず」
が標準的な読み下だしだ。
「これが道だと道(言)える道は一定不変の道ではない」
と読み換えることも出来る。
だが、そのように読み下だしたり、言い換えたりしたところで、それがなにを意味するか、本当の意味は、恐らくそう読んだご本人にも分かるまい、と言われるほどに難解と「されてきた」言葉であった》(安能務『韓非子(下)』(文春文庫)、pp. 197f)
<本当の意味>って何だ。おそらく、ただぼうっと読んだだけでは分からない深い意味がここにはあるのだとでも言いたいのであろう。が、私には、自分たちの解釈こそが「正しい」とする儒学者一派の驕(おご)りがここには見え隠れするのだ。