<政権一途に帰>すとは、具体的にどういうことを意味するのだろうか。
《南洲の意見を「党の方針がしっかりしないことはよくない」というふうに解釈せずに、国家は常に1つの意見だけでいかなければいけないというふうに取ると、政党政治否定に向かう可能性もある》(渡部昇一『「南洲翁遺訓」を読む』(致知出版社)、pp. 40f)
恐らく、西郷が言っているのは、「方針の一定」であって、行動まで拘束するような話ではないだろう。もし、行動までも「一定」ということになれば、活動の自由は奪われて、「全体主義」へと転がり落ちてしまうからである。
《これはプラトンの哲人政治論にひそむ全体主義的傾向の危険に通じます。偉い人の政治論にはよくこの危険があります》(同、p. 41)
渡部は、別のところでも、同様の警鐘を鳴らしている。
《一般的にプラトンは偉い人だといわれますが、プラトンの政治論は恐ろしいところがあります。プラトンの哲人政治は哲人が絶対支配をするのですから、これは独裁を意味しています。当時のアテネではみんながつまらない議論をしていて、これでは駄目だ、もっと偉い人間が出てこなければならないというものだったと思います。しかし、ヒトラーが哲人に見えることもあるのです。そういう面では、プラトンの国家を理想化することはナチス・ドイツにつながる危険性があるわけです》(渡部昇一『ハイエク マルクス主義を殺した哲人』(PHP)、p. 228)
私は、逆に、プラトンの<哲人政治>の考えを一定評価するので、少しこれを深掘りすることにする。
哲学者・田中美知太郎は、次のように<哲人政治>について語る。
《プラトンが『国家』第五巻(473C-E)において提唱した哲人政治の核心にあるのは、
治国のカと智を愛し求める営み(哲学)とが……同じ所に落ち合うのでなければ、国々に悪(不幸)のやむときはないだろう、いな人類にとってもそれのやむ時はないだろう(473D)。
という、何か悲願にも似たものだった》(田中美知太郎『プラトンIV 政治理論』(岩波書店)、p. 97)
《「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの2つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。さらに、われわれが議論のうえで述べてきたような国制のあり方にしても、このことが果されないうちは、可能なかぎり実現されて日の光を見るということは、けっしてないだろう》(「国家」第5巻(473C-E):『プラトン全集11』(岩波書店)藤沢令夫訳、p. 394)