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ブログネタ:【すんも賞を狙え!!】「ありがとう」と「ごめんね」どっちが苦手?
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更新が非常に遅くなっております。もうしわけない。
どうも、
新塵です。
とはいえ、物書きは、物を書いていないと死んでしまいます。
コレも気晴らしでよいだろう、と、そんなわけで口コミです。
『ありがとう』と『ごめんね』どっちが苦手?
ありがとう ごめんなさい。
まだ、幼いという言葉がそっくりそのまま当てはまる時期には
恥ずかしくて言えない言葉だ。
ムキになって言えない言葉だ。
だが、大学や社会・・・人によってはもっと前から
この言葉が別の意味で使いづらくなる日々がやってくる。
明らかに使うことは多くなるにもかかわらず、言えなくなるのだ。
矛盾しているように思うが、そうではない。
少なくとも、誰だって気づいて実行するのだ。
変なプライドや思い入れを捨てて
ありがとうやさようならを行ってしまえば楽になる。
そう思い、実行するー結果、たいていの場合はそれは受け入れられて
楽になることを知る。
だが
言えば楽になる。
そう知ってから、
本当の『ありがとう』や、『ごめんなさい』は言えなくなったのかも知れない。
『ありがとう』や、『ごめんなさい』にも種類がある。
一つは、本当に、自分の心のうちをさらけ出す、この口コミのネタになっている勇気を必要とする『ありがとう』や『ごめんなさい』だ。
もう一つは、勇気も何も必要ない。必要なものは要領だけのもの。
例えば
大学生になると人付き合いが多くなる。
多くの考えがあり思想があり、言語があり、人によっては肌の色さえ違う人と話し合うことになる。
組織に入ると、社会に入ると確実に必要なスキルで、この言葉をこまめに使わないとあっという間に社会不適合者だ。
実に、慣例的な『ありがとう』や『ごめんなさい』だ。
さて、
そういう慣例的な『ありがとう』や『ごめんなさい』を使うことに慣れきった時
本当の『ありがとう』や『ごめんなさい』を言い続けると。
それが悲劇の基だったりする。
最初は勇気を持っていったはずの言葉
それを相手が受け入れてくれる
楽になると知って、思い切って使い続けるようになる。
すると不思議なことに、アレだけ難しかったありがとうとごめんなさいが社会で使っている慣例的な『ありがとう』や『ごめんなさい』にすげ変わっていくのだ。
両者は対照的だ。
言葉自体は本心を表しているにもかかわらず、口から出たものは慣例的な嘘偽りに過ぎなくなっている。
そして、そんなものは当然相手だって見抜いてくるのだ。
そうなるともう悲劇だ。幾ら本心をぶつけようとしても、その口からは嘘偽り、偽装された言葉しか出てこない。『オオカミ少年』のように信用されなくなる。
言葉は大切だ、言葉には言霊がある。
よって使い続けなければならない。
だが、使い続けていても慣れてはいけない。
慣れが言葉を汚して
ウブな本当の言葉を隠してしまう。
そうなってしまえば、言霊はたんなる言葉に成り下がるだろう。
ただの音声記号になるだろう。
そうやって、本当の『ありがとう』や『ごめんなさい』は彼岸のかなたへ消えてしまう。
だから、むしろぼくは苦手なままでいいと思う。
苦手なまま、ぎこちなく、どんくさく、がたがたに、みっともなく使い続けていくのが一番いい。
かっこよく、スラスラと、スマートに、そんな言葉にきっと価値はない。
本当な言葉は、苦手だからこそ重みを持つ。
『ツンデレ』の垣間見せる『デレ』に萌えを感じるのはそういうことでしょ?
(↑↓台無しな結論)
恥ずかしながら言うのがいいんじゃないか。
本心からの言葉は、イツだって大事に大事に使っていかなきゃ・・・ね。
追記
『ありがとう』をいう場面で『ごめんなさい』をいう人が増えている。
相手は『ありがとうを期待して』の行為に、『苦労をかけてすまない』と返答されてしまうのだ。
案外コレが傷つくので自分もきをつけなきゃいけないと思う。
人の好意を感じた時は、『ごめんなさい』より『ありがとう』をつかう。
基本だけどついついごめんなさいといってしまう。
こっちの『ありがとう』、『ごめんなさい』問題も、よくある話だよなぁ。
そういう意味で、最近は、『ありがとう』が苦手な人間が増えているのかもしれないなぁ。
あれ?これが今回の口コミの本筋だったのかな?