日記 神様談義 | 蒸れないブログ

日記 神様談義

世界にはいくつもの宗教があり

世界にはいくつもの宗教があった



それは言いかえれば、宗教の数だけ神がいたということになる。



だが、このあまたある宗教は、その存在自体同じものではない。

教義(ドグマ)が違うからではない。



システムが違うと言ってもいいが



まったく別の物を、なぜか同じ宗教と言う名前のくくりにしていることにいったい何人の方が気づいていることだろう



それは、一神教と多神教の違いか?

いいや、違う。



一神教と多神教を区別する者は、世界を創造主のみを神と扱うか、世界の管理者全てを神と扱うかの違いに過ぎない。


反論する方もいるだろうが、一神教で有名のキリスト教徒においてさえ、何故ガブリエルや、ラファエル、あまつさえ、自分が神だと勘違いしたルシフェルといった超常的な力を持つ天使と呼ばれる存在が登場するのだ?

神は全知全能であるくせに、何故分業する必要がある?

多神教の側面から見れば、彼らだって十分神と呼べるにふさわしい力を持っている。

また、実際、君たちは天使にさえ祈るではないか?

神にだけ祈ればいいのに。それで救われるはずなのに。

そもそも、多神教的価値観からすれば、キリスト教はけして一神教ではないのである。

というより、明確な一神教など新興宗教以外にはあり得ないのだ。



ここまでは、以前に書いたこともあると思う。



ゆえに、一神教、多神教の違いはほとんどないと言ってもいい。

ただ、各分、宗教がまったく別の存在を一つのくくりにしていると批判した以上、何らかの違いがあるのは当然。


答えを明かそう。『神の定義』が全くと言って違うのだ。


似て非なるとはよく言ったもので

勘違いも甚だしいほどひとくくりにしている。


どのくらいの勘違いを多くの人がしているのかと言うと

ある人は『電子レンジ』を神と言い、ある人は『あら挽きハンバーグ』を神と言っているのに等しい。


これ以上の例えはくどいようなので答え合わせをしていこう。



そもそも、宗教はその歴史において大きく三つの分類ができると思われる。


第一期

シャーマニズムの時代

自然宗教が発達した時期である。

もっとも初期の神様とは、まさにこれだった。

有名どころを言うならば

ギリシャ神話、北欧神話、日本人でいえば日本神話がなじみ深いかもしれない。

(といっても、最近の人間は天照とスサノオ、ツクヨミが、兄弟で三柱であることすら知らない連中もいるくらいだが・・・・)

こういった時代、神の定義はまさに『力ある物の象徴』だった。

故に力あるものならば、なんでも神だった。

最も近場で会ったのが大自然だったため、

やれ太陽だ→太陽神アポロンだの天照だの。

やれ雷が落ちた天の神のお怒りだ→ゼウスだのアラミタマ菅原道真だのなんだの。

そうやって、当時の人間が理解できないこと

当時の人間が対処しようもないほどの圧倒的な力を前にして、それを神と呼んだ。


まとめ 第一時期

『力ある物』=神


第二期

3000年ほど、前になるのか、このころ現人神が頻繁に現れるようになる。

日本人になじみ深い

仏=ブッダの登場

2500年前になると

キリストが登場し

さらに近代にはイスラム教の始祖

ハンムラビが現れる。

この時期、神の定義がそれまでのものと全く違ってしまった。

恐ろしいほどの違いである。

今までの神は、力ある物の象徴であり=力がすべてであったが

この時の神々は、ブッダにしろキリストにしろ元は力のない人間なのだ。

構成になるに従っていろいろなオプションがついて、奇跡の話をしたがるが

そんなのは単なる宣伝文句だ。

こと時期の神々は、人であるが故に、彼らが神である所以は、彼らが人々に行った行為、行動、そして、示した理念に他ならない。

もっといえば、


この時期の神は

『行動理念』=神だった。

行動理念がわかりにくければ規則や、規律でもかまわない。

が、大きく違うのは法整備したものではないということ。

人の心に眠る『道徳心』をが最も近いが、それを言葉にしてはっきり提示したのが彼らである。


まとめ、この時期の神は

『道徳心』=神であるということ。


第三期

現代に話が移る前にこうなった順序を言うなら

ことの発端は『いつものことながらキリスト教』である。

よくにしろわるきにしろ

彼らは世界最大の影響力を持つ宗教なのだ。

故に彼らの一挙手一投足がまさしく、この時期の神を生んだと言ってかまわない。


カトリックが、キリストをメシアから神に仕立て上げた話は知っているだろうか?

宗教会議くらい、中学生の歴史でも学校で習ったであろう

キリストはこの時三位一体論やらなんやらを持ち出し、じょじょに人の手によって

神となった。この光景が問題で

それは、人が偶像になる瞬間を神と命名したに等しい。


これに準じたのが


きわめて個人的な人間が

人気を背景に神となる、新興宗教である。

下世話な話をすれば、『アイドル宗教』と名前を変えてもいいかもしれない。



さて、

これでもうおわかりだろうが


この三つの時期

それぞれ、神と呼んでいる対照が全く違うことについて理解できただろうか?

ある時期

『力の象徴』が神であり

すこしたつと、

『道徳心』が神であり

さらに近世に至っては

『アイドル』が神なのである。

同じ神なのに、神の本質が違う。

当然、どの時期にもそれぞれの特性が被ることがあるので混同されがちだが

こうやってみると、神が神である理由はまったくもって違うのである。

なのに同じ宗教というくくりだ。

変な話である。

これが宗教をややこしくしている。


あえて、共通部分があるとすれば、それぞれを擬人化してしまったことが同じなのであろうか?擬人化と言うより疑神化というべきか?


さて、ここでもう一つ神様について語りたいことがある。

日本人は本当に無宗教家か?

宗教や、神と言う言葉を毛嫌いしている人間が馬鹿に多い日本人だが

さらに、神を信仰する人間をいやに信用しない日本人でもあるが

外国人に言わせてみれば

神を信仰していない日本人は、人ととして信用し難いというのは結構一般的に聞かれる話である。日本人と真逆だ。


このギャップがどうして起こっているのか?

一言でいえば、外国よりの視線で見ると

日本人が神に対する教養、宗教に対する教養が第一期の神々の時代で止まっていて

きわめて教養がないからである。

日本人は、振興の仕方すら知らないし、いまだに、神をすがりつくものだと思っているのが最大に原因で。


外国人は、それよりはるかに先進的な概念を『教養をもつ一部の知識人』が持っているからだという意見がある。

―続く。