口コミ 「自殺について考える」
ブログネタ:自殺について考える
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自殺に、救いがない。
ここまで、
そう、ちょうど今この時点、この場所、までたどり着くまでにいくらの時間を浪費しただろう。
人生
生きて歩いた道のり、道程
それが途中でぱっさり途絶えて、下へ下へと落ちていく。
その境界の向こうを「死」と呼ぶとして
死を与える要因は、なんなのかと聞かれれば
二つに分けることができる。
すなわち、「内因性」と「外因性」
ただし、内因性が自殺で、外因性が他殺という意味じゃない。
自殺にすら、「内因性」と「外因性」の二つがある。
死の境界、それは多くの場合、突然に現れるものではなく、背後から忍び寄るものでもなく
ただ漠然と前に合ったものが、こちらに勢いよく近づいてくる事。
それが、肉体の面であれば、寿命であるし
精神の面であれば、自殺になるのかもしれない。
自殺について考えるとは、自殺する側に立って考えを巡らすこと。
当然、僕には完全にトレースすることはできない。
僕は、「死」を否定しているから、ここまで生きてこれたから。
けど、それでも考える。
自分の意見を殺さぬよう、けれど、どっぷり浸かって考えようと思う。
思考を巡らし、在りし日の体験と心象を持って、あの人のことを思おう。
人生において、一番の盲点は何だろう。
結局のところ人間と言うのは夢見がちというかなんというか
いくら現実のなかに生きているといっても、そこに主観がある以上
どこか物語の中で生きている側面がある。
そして、あんがい盲点となるのは、それに気づいていないため
漠然と
本当に漠然と
最悪の事態になったとき
それこそ物語と同じように
突然幕が下りて、自分の人生が終わってしまうと勘違いしていること
現実では、そのようなことはない。
最悪の事態が起ころうと起らなかろうと、関係なく。
肉体が死なない限り、精神は死なない。
ちゃんと、続きが連綿と続いていく。
いざ実際最悪の事態に陥ったとき、そこに立ってみれば
やっと気づく
やっと・・・・きづく
続いていく・・・それは、希望の言葉のはずなのに
最悪の絶望の言葉に変わる。
そう、肉体的には続くかもしれないが、精神的には終わると思い込んでいた。
だからそのギャップを目の前にした瞬間、絶望をする。
続いていく。
すでに一回もう壊れてしまったこれが続いていくのか?
この後の展開は、筋書き通りだ、それなのに、この役を演じ続けなければならないのか?
まさか・・・冗談だろう?ふざけないでほしい。僕にはそんなこと不可能だ。心が耐えられない。
おかしい、変だ、異常だ。
これは、普通じゃない。何で幕が下りないんだ。正しい道に戻さなければ・・・。
幕が下りないんじゃ、このくそったれな物語が終わらないのなら・・・
自分で終わらせるしかないだろう?
これが、自殺だと思う。
死を選ぶ理由は、瞬間ではなく、先の未来を図ったからこその永遠。
そこに行き地獄があると予想するからこその、自ら幕を下ろして今物語に終わりを与える。
でも、実際には、未来のことなんてわからないし、転んでも立ちあがることはできるし、「信じることさえ」できれば、
先があるという事実は、いつだって希望に変わるチャンスがある。
冷静になって考えてみれば、そんなこと当然わかっているはずなのに。
頭には幕を下ろさなくてはと考える自分が居る。もう、疲れた・・・お腹いっぱいなのだと。
僕が、思うに、自殺する人のほとんどは、未来において希望がないわけではないと無自覚、自覚問わずに悟っていると思う。
問題なのは、それでも死に向かう自分をどうするか、絶望症候群・・・うつ病のような、重たい空気の中で、そこから脱することができないという事実自体が自殺者をむしばんでいると言うことだと思う。
これを解決する方法は、自分で何とかするか、他者が手を差し伸べるかのどちらかだろう。
自分で何とかするには、「気づくこと、あるいは覚める」ことが必要でこれはなかなか難しい。人間は集団で生きる動物だから。それができた人間は、自分を誇ってもいいと思う。
他者が手を差し伸べる時には、「根気と、継続、見本と強要しない精神」が他者に必要で、逆に、自分には、『一瞬』でも「他人に目を向ける力と余裕」が必要になる。
条件は多いが、このほうが、実際には意味がある。
自殺をしたいと思う人のサークルがある。内容は、麻薬をやめたい人と似通った部分はあるが。
ただ、グループで自殺をしたいと思った理由と体験を語り、お互いに言うだけ言って、聞くだけ聞くが、意見はあまり言わないという、単純に言えばそれだけの事だが効果がある。
グループで行うことで、連帯感ができ、「根気と継続」のハードルが下がり、あまり意見をしないというのは「強要しない」と言うことなんだろう。
ただ聴くというのも「他人に目を向ける」と言うことを無意識に行うことに他ならない。
ここで、自殺の理由にはやはり「外因性」と「内因性」がある。
「外因性」とは、人とのつながりによってもたらされた自殺衝動であり、
「内因性」とは、人とのつながりを遮断したことによる自殺衝動と言えるかもしれない。
「外因性」
人とのつながりのなかで、摩擦が生れ、最悪の事態が起こってしまうケースは多くの人に分かってもらいやすい。
それは、健常な心の反応で、決して悪ではないから。
あんがい、サークルに行くと、気が晴れてしまうことが多い。人によって傷ついた心は、人によって癒すことができる。そこにはつながりがあり、他人が手を伸ばして入っていくだけの空間がある。
「内因性」
これには難しいものがある。癌細胞を自身の細胞が、自身の体の生存を許さない事だとするならば、この場合、自分の心が、自分の生存のを許さないことと言えるから。つまり、他人がどうこう言っても、自分で評価し、自分で結果を出して、勝手に自分で終わってしまう。例を出していことはできないが、たとえば、自分が目的の大学に入ることができなかった、そう言った自分を許せないー単純すぎるがそう言ったもの。
「内因性」に関しては、始まりが孤立にある。
孤立、もしくはヒトリになること。
物理的にではない。心の中でのこと。たとえば、どんなに仕事でいろいろな人と付き合っていても、心を開いていなければ、そもそもそれは思考のなかで自己の範囲から出れずに、自己完結してしまう。
自分の周りの世界ですら、自分で勝手に解釈し、自分で勝手に作り上げ、自分で勝手に絶望してしまう、フルオーダーメイドの鳥かご。逃れることは容易ではなく。よく考える人に多い。
自己ですべてを作り上げるが故に、その工法に歪みや誤解があっても審査基準でさえ自分で作り上げたものなので気づくことすらしない。
だからこそ、「内因性」の自殺衝動とは孤独な戦いが展開される。自分自身で決着をつけなければ意味がない。
それでも、「内因性」の自殺に他者が手を伸ばす事は無駄じゃない。
そこに人がかかわり、一度だって繋がり、外の空気が入れば、その問題は一気に解決するし、「内因性」が「外因性」にばける。
なんにしても、人は一人でいることは危険だ。誰にとって危険かと言えば、「自分にとって」危険だ。僕たちは集団で生きる生き物だ。集団で与えられた傷や疲れは、集団によって癒される。
気づかなくちゃいけない
僕たちは、つながっている。
一人じゃない・・・一人じゃない・・・一人じゃない・・・
孤独であるという幻想の殻を破る
一人じゃない一人じゃない一人じゃない・・・・つながっている。
僕らはつながっている。
現実的に、「内因性」だとか「外因性」だとか、
にっちもさっちもいかなくなった状況では、どうしようもないだろう?
そう言う人もいる。
だから、重要なのはそう言うことじゃなく
やっぱり、どうせなら・・・みんなで生きていこう、と言うことなのかもしれない。