6月議会の一般質問の冒頭で触れた、30歳という若さでこの世を去った磯川諒くんの追悼のつどいに参加してきました。

カープマニアだった彼の足跡をたどって

マンホールもカープです。
マツダスタジアムの地下に雨水貯留池があり、施設を見学するとカープ坊やのマンホールカードがもらえるそうです。



↓広島に行くと、ペンもカープになります


広島をでて、大阪で小規模な介護事業所に勤めて、生活習慣作りとあわせて介護の仕事をしてきました。
彼の個性というか特徴として、ADHD、ASDのようなこともあったのかもしれません。

ひとつずつ、出来ることを増やして仕事も覚えてやってきていましたが、2015年の介護報酬大幅切り下げ以降、介護事業所での赤字の累積化と合わせて、労働密度が濃くならざるを得ない仕事をやり切ることが、彼にとって苦しくなってきたといいます。

それまでやっていなかった、デイでのお泊まりも引き受けるようになり、仕事で求められることも増えました。

彼自身、仕事や市民運動などの中での関わりの中で自分を発展させ豊かになりつつありましたが、利用者さんへの接遇の改善や煩雑な書類作成など、まだ苦手なことも色々ありました。
自分のことを語ることのない、闇の部分も抱えていたそうです。

体調が悪くなっている問題もありました。
最近は、ジュースやファストフードなどの糖分・脂肪分の多い食生活から、脂肪肝となり、肝硬変に至る事例が増えているそうです。
食の貧困からの健康状態の悪化です。


彼も子どもの頃からの食習慣をなかなか変えれず、仕事がハードになるに連れて体調の悪化もあったのだそうです。

そうこうしていた矢先に、カープが優勝した年に広島へ帰ることとなり、仕事も大規模な介護施設に就職は決まりましたが、周囲の手厚い関わりはできなくなりました。

心配し、広島のメンバーも連絡をとっていましたが、返事がこなくなり、社会的なつながりを彼が閉ざしてしまい、孤立死ということになってしまいました。

電気が止まっていたそうです。
電気が止まると、彼の唯一の社会との接点である携帯が充電できなくなり、使えなくなります。
自ら部屋を出て外に行って、誰かに助けを求める事は、彼にとってはハードルの高いことだったんだろうと思います。
仕事には1月から通えなくなり、解雇となっていたそうです。
発見されたのが6月8日、死後2週間ほどかといわれています。


彼とは、松下プラズマディスプレイ社偽装請負訴訟・吉岡くんの労働争議を共に闘ってきました。
人を虫ケラのように扱う社会はおかしいと、彼は言っていました。

彼の生きた爪あとを残したいと思い、6月の一般質問の冒頭で、少し彼のことに触れました。


京都での大会の時、ユースメンバーで鴨川で花火

写真右が磯川くん。

介護事業者の方たちの集まりの様子

磯川くんが人生で一番輝いていたのが、2013年頃の全交関西実行委員長をやっていた頃だと思います。
私は全国実行委員長として、彼と共に活動をしていました。
これからも彼の思いと共に、歩んで生きたいと思います。


今回の追悼の会には、広島のメンバーと関東から、大阪からも介護事業所で一緒に働いていたメンバーが参加し、思い出やいっそん伝説など語りました。
座椅子メルトダウン事件(ゴミを溜め込みすぎて座椅子と畳がカビて溶けてしまっていた)や、台車事件(転んで歩けなくなり同伴者が台車で家まで運んだ)、冷房戦争(彼は夏場に20度以下に冷房を設定するので同室の人が寒すぎて対抗措置を取った結果冷房装置が壊れた)など思い出話しはつきませんでした。

会の後、広島のメンバーと交流会

ブラックビスケットの「タイミング」という曲が、彼のことテーマソングでした。

周りの空気を読めなくて、やることがズレて間が悪くても、それが彼のタイミングだし、そんな彼でいいじゃない、そんな彼だからいいんだよーそんな意味合いでしょうか。

彼とカラオケに行くと、必ず1曲めカープの歌を歌い、2曲めに「タイミング」を歌っていました。

やっぱりそんな選曲で幕開け

語り足りない思いは歌にのせてー


濃い広島ナイトでした。