平曲研究所のブログ

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平家琵琶(平曲)に関するブログです。
2014年以前の記事は、ぷららブローチのブログに加筆修正したものです。


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2か月前に全日本フィギュアスケート選手権大会の初日を観てきました。

このときの、坂本花織選手の演技に対しての感想です。

 

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坂本選手は6分間練習の時からひときわ大きく迫力のあるジャンプを披露していました。

演技の順番になり、音楽の始まりは緊張が強いかに見えましたが、
「フーッ」と息を吐いて動き出すと、それは集中力に変わったようでした。


「月光」の1楽章は、もっと厳かで静かな曲と思ったのですが、
(そう、翌日の男子ショートで唐川常人選手が滑ったような…)
この音源は最初から第3楽章みたいな激しく凍てつくような演奏です。
でも、坂本選手の力強いレイバックスピンに、選曲の正しさを確信しました。


後半、3楽章の激しさと共に、たたみかけるようなダイナミックなジャンプが成功。
観客が期待をこめてフィニッシュを見守っていると、
すごい勢いのウィンドミル。
と思ったときに、3回転目のウィンドミルが大きくぐらつきました。
ハッと息を飲む会場。
それを気迫でシットスピンに持っていく坂本選手に、こちらも感情が高ぶってきます。
フィニッシュと同時に、会場が「ドッ」と鳴り、観客総立ちで拍手。
どよめくときって、ほんとに「どっ」と音がするのですね。


大画面でスロー再生を確認し、キスクラが映し出されると、
坂本選手が突然、言葉を失ったかと思うほどに驚きの表情になりました。

その直後、場内アナウンスで73.59が発表されるや否や、
観客席が再びどよめき、称賛の嵐となりました。
 

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「オリンピックのオの字も見えない」ところから、試合経験を積んで、

グランプリファイナルでは補欠筆頭にまで繰上り、

ついに全日本で五輪切符をもぎとった坂本花織選手。

 

平昌五輪のリンクにも、

凍てつくような力強い圧倒的な月の光が差し込みますように。


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※ツイッターの連投を、ほぼそのままブログにしました※

 

大河ドラマ「西郷どん」にも出てくる島津斉彬。

父親である島津斉興とともに、江戸後期の江戸での平曲伝承を救い、

ひいては現代まで続く晴眼の平曲家による相伝を可能にしました。

この親子が「清川勾当」を2度までも京都に「平曲留学」させたので、

江戸に平曲全200句が伝わったのです。

 

清川勾当」は島津斉興・島津斉彬父子の出資により、

天保三年と五年に京都で「平家正節」に基づく平曲を学び

(途中の尾張でも学んだという史料もあるそうです)、

勾当から検校への昇進が許され、「麻岡検校」として江戸に戻ります。

 

その直前までの江戸には百句程度の伝しか無かったとのこと。

天保年間初めまでの江戸では、

元文二年(1737年)に岡村玄川という晴眼の平曲家が編纂した「平家吟譜」を用いていました。

「平家吟譜」最終稿というべき譜本一式が富山県黒部市の宮崎文庫記念館にあります。

安永五年(1776年)編纂の「平家正節」と大きな違いはありませんが、

教習順に編纂された「平家正節」と違って「平家吟譜」は平家物語順に編纂、

句の総数が違う(句切れの位置が違う)、

墨譜(≒節回し・語り方)に微細な違いがある、などが指摘できます。

 

「吟譜」時代の語り方は現代には伝わっていませんが、

麻岡検校は「正節」を確実に忘れずに伝承し続けるため、

「平家正節」の譜本を自身の娘(晴眼)に確認させながら、毎日稽古したといいます。

 

私の先祖は明治時代になってから、麻岡検校の娘が語る平曲を聴いており、

麻岡検校の毎日の努力を知ったそうです。

ひと月で200句を一通り稽古したそうですから、娘も毎日3~4時間は同席していたことになります。

 

さて〇〇検校の「〇〇」は、

過去に存在した検校と同じものは用いない決まりがあったそうです(当道制度の時代)。

「清川勾当」はそのまま「清川検校」を名乗ろうとしたところ先例があり、

他の候補も使えず、

薩州侯より「麻布魚籃坂に住んでいるから、麻岡」を提案されて麻岡検校となりました。

 

島津斉興は平曲の相伝者でもあり、

特に重い扱いの「大秘事」を学ぶ折には、その譜本を近習が書き写しています。

このときの譜本が、ひそかに江戸の晴眼の小秘事済の平曲家たちに流出し、

その後の晴眼相伝者誕生を円滑にしました。

 

斉興・斉彬父子は平曲伝承に偉大な功績を遺しました。


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フライヤー(チラシ)の裏面に掲載した、句組(くぐみ:演目のこと)のあらすじと、
句の分類に関する簡単な紹介です。

 



句組(くぐみ)紹介

 

●「小原御幸(おはらごこう)」平家物語巻之十二、平家正節灌頂巻

壇ノ浦の合戦の翌年、文治二年の北祭り(葵祭)が過ぎると、後白河法皇はお忍びで大原の建礼門院徳子をお訪ねになる。

遠山の白雲も青葉も法皇はご覧じ馴れない。西の山のふもとの御堂が寂光院である。甍は敗れ、扉は落ちるかの古い造りである。庭の若草、青柳、池の浮草、松にかかる藤、山吹、ホトトギスの声に、法皇は「池水に汀の桜散り敷きて波の花こそ盛りなりけれ」と詠む。

 

灌頂巻(かんじょうのまき):建礼門院徳子の出家から往生までを扱う。特別な琵琶の手である「灌頂撥」を弾いてから語り始める。

 

 

●「祇王(ぎおう)」平家物語巻之一、平家物語十一之上

入道相国(清盛)が寵愛する白拍子の祇王は、白拍子の仏御前の推参を清盛にとりなす。仏の今様を面白気に思った清盛は舞を所望する。仏は髪姿も眉目容も優れ、声も節もよく、清盛は心を移す。仏は祇王に遠慮するが、清盛は祇王を出してしまう。

祇王は日頃より覚悟していたが、三年も住み馴れた所は名残惜しく、障子に和歌を書く。「萌出るも枯るも同じ野辺の草、何れか秋に逢で果つ可」

 

長物(ながもの):平物(ひらもの)の終盤に学ぶ。「祇王」のように話の長い句や、曲節の変化が少ない句、ひとつの曲節が長い句がある。

 

 

●「那須与一(なすのよいち)」平家物語巻之十一、平家正節一之下

屋島の合戦も日暮れ、源平互いに引き退く。沖の平家軍から扇を掲げた小舟が汀に近づき女房が手招きする。陸の源氏軍では、判官義経と後藤兵衛が、弓の上手の那須与一を選ぶ。

与一は覚悟を決め、馬を汀に進める。北風が強く船も扇も揺れる。源平両軍も見物している。与一が神々に祈ると風が弱まり、鏑矢が扇の要際をひいふっと射切る。平家軍は感嘆し、源氏軍は箙をたたいてどよめく。

 

拾物(ひろいもの):合戦の場面や物事の列挙に用いる曲節「拾(ひろい)」を含む句。与一の装束描写や、扇の的を射る場面が「拾」である。

 

 

●「福原落(ふくはらおち)」平家物語巻之七、平家正節五之下

義仲軍に都を追われた平家一門は神戸の福原に着く。秋の月は下の弓張り(下弦)。清盛が造った福原は、花見の岡も月見の浜の御所も里内裏も、三年で荒れ果て、瓦に松、垣に蔦が繁る。翌朝、福原の内裏に火をかけ、船に乗る。

海士の焼く藻の煙も尾上の鹿、波の音、蟋蟀も哀れを催す。今は西海の波に艫綱を解く身。波の上の鳥に在原業平が詠んだ都鳥を思う。寿永二年七月二十五日、平家は都を落ちる。

 

節物(ふしもの):「拾」を含まない句。旋律豊かな曲節「初重(しょじゅう)」「中音(ちゅうおん)」「三重(さんじゅう)」などで情景を語る。

 

 

●「腰越(こしごえ)」平家物語巻之十一、平家正節読物

元暦二年五月二十三日、宗盛父子を連れた義経が鎌倉に着く。梶原景時の讒言により、頼朝は義経を腰越へ追い返す。後日、義経は一通の状を大江広元に遣わす。

恐れながら申し上げます。讒言により勲功を黙されています。私は義仲誅戮後、岩石を馬で越え、大海で風波の難を凌ぎ、平家を攻めました。牛王宝印の裏に起請文を書いても御宥免がありません。貴殿の慈悲で芳免に預れば、積善の余慶が一門に及ぶでしょう…。

 

読物(よみもの):書状や祝詞を読み上げる。特徴的で重厚な旋律構造を持ち、音楽的な分類でも教習順の分類でも「読物」と扱う。

 

 

●「劔之巻(つるぎのまき)」平家物語巻之十一、平家正節大秘事

本朝には神代より伝わる霊剣が三つある。十束剣、天蝿切剣、宝剣となった草薙剣である。素戔嗚尊は出雲の八色の雲を三十一字に詠じた。出雲の稲田姫が、尾も頭も八つある大蛇に呑まれると知り、八の船に酒をたたえて大蛇を酔わせ霊剣で切ると、一つの尾から村雲剣が出てきた。これを天の帝の宝とし、天孫に授け、崇神天皇の御宇に伊勢神宮に籠め、作り変えたものを今の帝の御剣とした。

 

大秘事(だいひじ):「宗論」と、三種の神器の「鏡」と「劔」を重く扱う。特別な琵琶の手「九ツの手」を弾いてから語り始める。

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