平家鎮魂の旅

 平家鎮魂の旅

  日本津々浦々にある「平家物語」ゆかりの地を訪ね、「平家物語」原文と読み合わせる形で、現地に伝わる伝承や史跡などを綴った旅行記。

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奥に進むと目的の竹田人形があり、「義経八そう飛び」と「勧進帳の義経」が並んでいた。前者には、「眉は上にピ-ンと跳ねた逆八文字、釣り目で切れなが、ツンと上向き加減の高い鼻、口はへの字にギュッと結び、大袈裟な見得のポ-ズ。この得意な姿の人形は「竹田人形」です。大阪・道頓堀にある竹田座のからくり芝居の動きをとらえて、大阪で作られた唯一の人形です」と案内されていた。後者は笈を担がされた義経だが、これはどのような場の見得であろうか。


義経八そう飛び
【義経八そう飛び】

勧進帳の義経
【勧進帳の義経】


この他、「平家物語」に関わる人形としては、「巴御前」や「源平布引滝の斉藤実盛」があった。また、頭部のみの「牛若丸と弁慶」があったが、これは今までの人形とは異質のもので、案内が欲しいところである。

巴御前
【巴御前】

牛若丸と弁慶
【牛若丸と弁慶】


この他、「むかで退治」で知られる平安時代の俵藤太、室町時代の太田道灌など歌舞伎などで馴染みのある人物の人形が多く並んでいた。


竹田人形芝居の詳細はネットに記載されているので参考までに。

竹田人形座について/瀬戸内 喜之助フェスティバル

竹田人形座とは/飯田市ホームページ


二階の会場から庭に出ると、真正面(西側)に小倉山が見られ、この辺りが百人一首の生誕地であることに思いが至った。

(2014年5月18日)

役者姿をした江戸時代の「竹田人形」の企画展が京都市右京区嵯峨野鳥居本の「さがの人形の家」で開催されたが、「平家物語」に関わる数体の人形も展示されていると新聞に報じられたので、人形の家を訪ねた。


さがの人形の家


竹田人形は江戸時代に大阪で人形芝居を演じた「竹田座」の人形を基にしたとされる。豪華な衣装で見えを切るようなポ-ズもあり、「歌舞伎人形」とも称されている。受付を済ますと、その前には「からくり人形」がずらりと並び、家の人が順番にネジを回して動かしてくれたが、よくもこのような動きができるものと驚かされた。


弘川寺については以前に訪ね、拙著「平家鎮魂の旅~畿内/摂津の巻」に記しているが、2014年4月6日に再訪した。それは「百寺巡礼」に、「弘川寺の西行堂は四月の第一日曜に開帳」と記され、開帳された堂の前に立つ著者と堂の中に安置された西行法師座像の写真が掲載されていたからである。

 

当日はあいにく小雨であったが、一年にただ一日という思いで弘川寺を訪ねた。

桜の花は散り始めていたが、まずは本堂(本尊は薬師如来座像)に参拝の後、堂の北側の坂を上って西行堂に至った。




西行堂
【西行堂】


ところが、「西行堂」と記された扁額の下の扉は閉ざされたままであった。致し方なく、これより東の坂を上り、西行墳や似雲墳へ向かった。両墳のことは拙著に記しているので省略する。西行と似雲、そして弘川寺のことについては「街道をゆく三」の「河内みち」にかなり詳細に記されているので紹介しておく。

 

その後は今回のもう一つの目的である西行記念館に向かった。記念館は本坊で入館料を払い、本坊では庭園(見頃は秋の紅葉)を眺め、その奥の篠峯殿では展示の写真などを拝見し、その後、別棟の西行記念館に至った。



西行記念館
【西行記念館】


この記念館には西行と似雲に関する像や資料などが展示されているが、そのメインは中央に安置されている西行法師木像である。像の前には、「西行法師像、伝文覚上人作、材は桜の一木、古来弘川寺に伝来」と案内されていた。「伝文覚上人作」の西行像があることに驚き、魅かれた。西行法師と文覚上人の出会いにおもしろい逸話があるので、少し弘川寺から離れるが、紹介させていただく。この逸話は「井蛙抄」という鎌倉末期から正平15(1360)年頃に完成したといわれている本に記されているという。

 

文覚は、僧侶でありながら仏門の修行もせず歌道の研鑽ばかりをしている西行を毛嫌いしており、「出会う機会があれば、頭を打ち割ってやる」と公言していた。

神護寺の法会が行われた際に、参列した西行は文覚に一夜の宿を頼んだ。手ぐすねひいて待っていた文覚は、しばらく西行を見つめていたが、やがてねんごろに招き入れて歓待し西行を帰したという。

西行との出会いにハラハラしていた文覚の弟子たちが、西行が帰った後に文覚の日頃の言動とは違うと指摘すると文覚は、「あれが文覚に打たれるものの面構えか、文覚こそ打たれるべきものだ」と言ったという。

 

『平家物語』に登場の文覚は、気性が激しく、荒行により法力を身につけ、天下に号令した頼朝をも圧倒する文覚であったが、歌人の西行はどれほどの凄みや迫力を内実していたのであろうか。西行が『平家物語』に登場していないのが残念である。

 

さて、広川寺の西行記念館に戻ろう。伝文覚作の西行座像をよく鑑賞したいのであるが、照明が暗く、像の前の幕に邪魔をされて像の中央部がぼんやりと見える程度でまことに残念であった。

館入り口のすぐ左側にも「西行法師像」があったが、これは平成作の像で、「楠材の一木像、松久宗琳作」と案内されていた。

 

西行記念館を去るに当たり、本坊の受付で「今日は西行堂を開帳することになっているのではないですか」と尋ねると、受付の人は住職を紹介してくれた。高志慈海住職の説明によると、


1. 以前は、伝文覚作の西行像は西行堂に安置していて、西行堂は四月の第一日曜日に開帳していた。

2. その後、西行記念館ができると伝文覚作の西行像は記念館に写し、西行堂にはレプリカを置いている。

 

ということであった。「記念館の西行像はよく見ることができないのでレプリカを見せてもらえないか」と頼むと、住職は傘をさして西行堂まで来ていただき、「レプリカは写真撮影も構わない」という温かい言葉をいただいた次第である。その西行像は脚は結跏趺座で手は禅定印の僧の姿であった。




西行堂の西行法師

【西行堂の西行法師像】





西行墳

【西行墳】



庵跡へ続く道

【西行庵跡へ続く山道】




西行庵跡




西行庵跡付近より街を眺む
【西行庵跡付近より街を眺む】






「摂津の巻」の28頁に源義経が渡辺津から船で阿波国へ向かったことを記した。義経は出航に際し、朝日神明宮で戦勝祈願を行ったと伝えられている。その神社のことは本文に記していないので、これよりその神社を訪ね、そのことをここに填補する。


義経が祈願した朝日神明宮は渡辺津の近くにあり、そこで義経は梶原景時と「逆櫓の論」を行った(32頁を参照)とされ、朝日神明宮を逆櫓社と別称されていたと伝えられている。




朝日神明宮は明治以降、諸般の事情により、他神社と合併合祀、そして移転をして現在は此花区で朝日神明社として祀られているので、これより訪ねることにする。



朝日神明社(此花区春日1-6-21)はJR大阪環状線の西九条駅の西方1.5キロメ-トル程にある春日出小学校の西側にある。



西九条駅で下車し、それより近くまでバスで向かう積もりであったが、適当なバスを見つけることができなかったので、徒歩で現地に向かうことにした。



駅前から北西に進むとすぐに、六軒家川に架かる朝日橋がある。その橋を渡ると左()側に「初代 大坂船奉行所跡」の石碑が建ち、傍らの案内板には、

 

大坂船奉行所は元和六年(一六二〇年)に、近世には難波津に代わって大坂の要津として賑っていた伝法・四貫島に設置され、徳川幕府最初の大坂船奉行所を、全国200藩中で日本一の船奉行所になります。

 

と記され、当時の地図も示されていた。歩くと思わぬ効用があるものと悦に入った次第である。



更に進むと市道福島桜島線に合流して西南に進み、国道四三号線の下を潜ってより三つ目の信号で左折して南東に進むと左側が春日出小学校の西塀で、その先、右側に目的の神社があった。そこに石の鳥居が建っているが、そこは境内の東で、南と北にも鳥居が建っていた。朝日神明社の社殿は南向きにたっていて、この社の正面入り口は南の鳥居と思われたので、南側の鳥居の前に立つと右側に「朝日神明社」と刻まれた石碑が建っていた。鳥居は神社名のとおり神明鳥居であるが、祭神として天照皇大神を祀っているからであろう。



境内に設置の「由緒」と題された案内板には、

 

当朝日神明社は、朝日・日中・夕日の浪速三神明の一つとして有名であった朝日宮(東区神崎町)と皇太神社(此花区川岸町)を合祀したものである。

朝日宮(逆櫓社)は朱雀天皇の天慶年間(九四〇年頃)に平貞盛の創建するところであって、「承平・天慶の乱」の後、貞盛の戦勝を叡感するところであって、尚、源義経が平家追討の途次朝日宮に戦勝の祈願をされた。一ノ谷の合戦後、梶原景時と史上有名な「逆櫓の論」があったが、義経は、当社に祈願をこめているので戦勝疑いなしと景時の論を退け平家を西海に討滅した。当時より当社を一名逆櫓社ともいわれるようになったのである。

 

皇大神社は・・・。皇大神社は明治四十年に朝日宮と合祀して「朝日神明社」と社号を改めた。・・・

 

と記されていた。



 

平貞盛は平清盛の六代前の祖(貞盛-維衡-正度-正衡-正盛-忠盛-清盛)であり、義経が朝日神明宮で平家追討の戦勝祈願を行ったことは一見皮肉にも思われるが、祈願者は神社の創建者にではなく祭神に祈願しているので、何の不思議もないとも言えるであろう。



境内にはこの朝日神明社のほか、春日社と初日稲荷神社の社殿もあったが、これらの二社殿は東向きであった。



境内の建物は太平洋戦争による空襲で全焼し、今の建物はすべて戦後に建設されたものであると案内されていた。



(訪問は2014112日)

福知山より由良川を少し下れば旧・大江町に入るが、これより丹後の国である。更に日本海まで下ると、「山椒太夫」の伝説がある由良に至る。これより東に向かうと舞鶴市で、西に向かうと日本三景の一つである天の橋立に至り、その先は丹後半島である。


それではこれより天の橋立に向かうことにする。天の橋立の美しさを一望するには、すぐ南側の玄妙山に上がって眺めることである。橋立の白砂青松の美しさには松はなくてはならないが、地層の花粉分析によるとこのクロマツは約三千年前から継続して生えていたという。




 

源平時代の丹後は平家一族が所領し、特に平重盛とは深い関係にあった。この天の橋立には、重盛の五男である忠房に関わる伝承がある。


 

忠房が『平家物語』に登場するのは平家の都落ち(巻第七「維盛都落」)のときからで、その後、巻第九「三草合戦」では、「・・・、丹後侍従忠房、三草の手を破られて、面目なうや思はれけん、播磨の高砂より船に乗つて、讃岐の八島へ渡り給ひぬ」と語られている。その後は巻第十二「六代被斬」では

 

小松殿の御子丹後侍従忠房は、八島の戦より落ちて、ゆくゑも知らずおはせしが、紀伊国の住人、湯浅権守宗重をたのんで、湯浅の城 にぞこもられける。是を聞いて平家に心ざし思ひける・・・

 

と語られ、湯浅城に同心が集まり抗戦するが、やがて敗れて各地に散って行った。そのときに頼朝が「重盛には恩義があるので、その子の命は助ける」と言っていることが伝えられたので、それを信じて出頭したが、鎌倉からの上京中、瀬田の橋辺りで斬り殺された。




 

さて、当地の忠房に関わる「花松の身投石」の伝承であるが、先ずはその史跡を訪ねることにする。

 

その身投石は智恩寺から海辺を東へ進んだ所にある。牛の背のような1メ-トル程の石が横に伸び、その前には「涙の磯身投石 小松忠房・・・」と刻まれた石が立てられていた。



 平家鎮魂の旅-身投げ石

 平家鎮魂の旅-身投げ石2



その前に宮津市教育委員会が設置の、「浜の磯(身投石)」と題された案内板には、

 

この磯を涙ケ磯といい、正面の牛の背のような石を身投げ石とよぶ。丹後の近世地誌類は二つの伝承を伝えている。一つは謡曲「丹後物狂」の伝承で

ある。・・・(省略)もう一つは、江戸時代後期の「丹哥府志」に記された伝承で、源平合戦の時、屋島に敗れた平忠房(丹後侍従。平重盛の子)の白拍子花松が、あるじに向けられる源氏の捜索の目をくらまさんがために、ここで身を投げて死んでしまったという悲話である。




 平家鎮魂の旅-身投げ石_案内板

 

と記されていた。忠房のために身投げした花松について「丹哥府志」には、

 

世の人花松の為に泪を流さぬものなし、よって此磯を泪の磯といふ、身投石といふは花松の溺れたる處なり、後の世に丹後物狂といふ謡曲に花松といふ狂女に又花松といふ男子を作る、此事実に非事なり。

 

と記されているそう(ネットによる*1)である。

 

この伝承が事実であれば、忠房が湯浅の戦に敗れて後、斬殺されるまでの間のことになるが、忠房がこの天の橋立に来ていたのかどうかはわからない。




 平家鎮魂の旅-お地蔵さん



*1 丹後の伝説

当初の『平家物語』は巻十二の「六代」に、正治元(1195)年に六代(清盛の直系の曾孫)が斬られ、「平家の子孫は永く絶えにけり」と語られ、一連の物語は閉じられている。ところが、巻十二の後の「灌頂巻」は文治元(1185)年に戻っていて、「灌頂巻」は『平家物語』が完成した何年か後につけ加えられたと推察される。


灌頂とは仏教用語で、仏の位にのぼるための密教の儀式である。したがって、「灌頂巻」は諸行無常を語る『平家物語』の結語として加えられたと思われる。




 ところが、「灌頂巻」の「大原御幸」で語られている、後白河院の大原への御幸は歴史的事実ではないとの説が有力なのである。というのは、院政を行っていた後白河院の御幸であれば、貴族の日記などに記載があって然るべきだが、その記載が一切見られないからである。


『平家物語』の作者はそのことを承知していても、後白河法皇に大原へ行ってもらわねばならなかった。それは「六道の沙汰」を語り、「寂光院の鐘の声」で幕を降ろさねばならなかったからであろう。


筆者が拙著で何度も記しているように、『平家物語』は歴史書ではなくて物語であるので、歴史的事実でなくても、『平家物語』では後白河院が大原を訪ねてもいいではないか。それはその通りである。しかし、『平家物語』が歴史的物語であるからには、リアリティ-が失われてはならない。


後白河院は何のために建礼門院に会いに行ったのであろうか。建礼門院を慰めるため、それとも彼女の様子を知るため、ほかにどのような理由が考えられるであろうか。『平家物語』で語られてきた後白河院の人間性からは、建礼門院に会いに行く理由など、まったく考えられないのである。


そして、もう一点を挙げると、建礼門院が経験してきた六道の苦しさを後白河院に詳しく語ることも、まったく考えられない。建礼門院は永井路子が「寂光院残照」(註:1)で記している通り、「ぞっとするほどの無関心と無感覚」な人間なのである。『平家物語』で建礼門院は、ただ一度のことを除いては、人の指示に黙って従い、運命に流されていった女性である。そうして語られてきた建礼門院が、突然に訪ねてきた後白河院に自分の経験を語ることなど、とても考えられないことである。宮尾登美子も「平家物語の女たち」(註:2)に、「それで宮尾本では、灌頂之巻には一切触れず、物語を終えることにしました」と記している。


建礼門院のただ一度だけのこと、それは高倉天皇が亡くなったとき、後家となった彼女を後白河院の後宮に入れてはと彼女の叔父の平時忠が提案し、母の時子もそれに賛成した。しかし、建礼門院はそんなことなら尼になると、はっきりと断っているのである。



さて、後白河院の訪問も建礼門院の語りもリアリティ-にそぐわない。それでも『平家物語』の作者の目的を達成させるには、どのような策があるであろうか。


それには、筆者は法然上人にお願いするしかないと考えるがいかがであろうか。



『平家物語』巻第十「戒文」で法然上人は重衡に戒を授けているが、再度、ご登場いただくのである。しかし、都からはるばるお願いするのではなく、都合よく法然上人は文治二(1186)年に100日間、仏法問答のために大原に滞在しているのである。そこで、阿波内侍が勝林院へ行って、法然に帰りにぜひ寂光院へ立ち寄ってもらいたいと懇願するのである。「戒文」の法然上人の様子から、快諾を得るのは間違いないものと思われる。


寂光院を訪ねた法然上人に、六道の経験を語るのは阿波内侍で、建礼門院は顔色を変えることなく、無言で遠くを見るようにして聞いているのである。法然上人は涙にむせんでしばらくは何も言われない。そして、居並ぶ三人に、心に念仏し口に仏名を唱えることを忘れないなら、浄土に往生することは間違いないと諭したのである。


阿波内侍は「こちらでは何の持ちあわせもなく、申し訳ございません」と断りながら、上人に柴葉漬を渡して礼を述べるのであった。


上人は寂光院の鐘の声を聞きながら、都へ目指して去っていった。





註1. 永井路子著「寂光院残照」(集英社文庫)

註2. 宮尾登美子著「平家物語の女たち」(朝日新聞社)
 平盛国のことについては邸宅のことのみしか記されていなかったので、盛国について少し記しておくことにする。

   

盛国が『平家物語』に登場する最初は、巻第二「西光 被斬」で、「鹿の谷の謀議」を 多田行綱が清盛邸に密告しに来た時のことである。その部分を読むことにする。


・・・、入道相 国の西八條の邸に参つて、「行綱こそ申すべき事あつて、これまで参つて候 へ」と、案内を云ひ入れたりければ、入道、「常にも参らぬ者の参じたるは何事ぞ、あれ聞け」とて、主馬判官 盛国を出されたり。


 

盛国の周辺の系図を「平家物語大事典」により示したが、盛国は平正度の孫、季衡の子。越中前司盛俊の父である。ところが、2012年にNHK大河ドラマで放映された「平清盛」では、盛国は漁師の子で、白河法皇の殺生禁断令で父親を亡くすと、忠盛の計らいで平家一門の養子になっている。盛国の出生には諸説があるのであろう。


主馬判官は主馬寮の頭で判官を兼ねる者。主馬寮は東宮坊に属する役所の名で、乗馬や馬具のことを司る。判官は検非違使尉 つまり現在の警察官や裁判官の役人である。


盛国の『平家物語』への次の登場は、物語にとって大きな出来事となった。これは巻第二「教訓」で、盛国が重盛に、清盛がたいへんなことをしようとしていると告げる場面である。


 

主馬判官盛国、急ぎ小松殿へ馳せ参つて、「世ははやかう候 」と申しければ、大臣聞きも敢へ給はず、「ああはや成親卿の首の刎ねられたんな」と宣へば、「その儀にては候はねども、入道殿の御著背を召され、候上は、侍どもも皆打立つて、只今院の御所法住寺殿へ寄せんとこそ出で立ち候 ひつれ。暫く世を鎮めんほど、法皇をば鳥羽の北殿へ移し参らするか、然らずはこれへまれ、御幸をなし参らせうどは候へども、内々は鎮西の方へ流し参らせんとこそ擬せられ候 ひつれ」と申しければ、大臣、何に依つて、只今さる御事のおはすべきとは思はれけれども、今朝の禅門の気色、さる物狂はしき事もやおはすらんとて、急ぎ車を飛ばせて、西八條殿へぞおはしたる。


大臣とは重盛のことで、重盛は盛国の報告に、よもやそのようなことはないだろうと思うが、今朝の父(清盛)気配では、そんな狂気じみたこともあるかもしれぬと思い、急いで車を飛ばして西八条へむかったのである。




重盛は情理を尽くして父を責めるが、「父が院を責めるのであれば、自分は院を守らねばならぬ」ということで、重盛は感極まり、父へは「申し請くる所詮は、唯重盛が首を召され候へ」、そして盛国には「重盛こそ今朝別して天下の大事を聞き出したんなれ」と 語ると、武士を集めるように命じた。父が院を責めるなら、重盛は院を守るというのである。盛国が重盛に伝えた意味は計り知れない程重いことが伺える。




これ以後の盛国の登場は、富士川の敗戦の責任で藤原忠清が清盛から死刑を命じられたときに、盛国が忠清をかばったこと(巻第五「五節沙汰」、五条大納言邦綱卿が盛国の子であること(巻第六「祇園女御」)ぐらいである。しかし、盛国は清盛から非常に信頼された人物で、『平家物語』においても重要人物の一人といっても過言ではないであろう。

平清盛終焉推定地


 

『平家物語』巻第六「入道逝去」は拙著「平家鎮魂の旅~畿内/洛中・洛外三の巻き」の19頁で読んだ。「吾妻鏡」によると、清盛は平盛国の屋敷で亡くなったのであるが、その場所について拙著には記していなかった。

  

2013年1月14日に、京都南ライオンズクラブの寄付により、NPO法人京都歴史地理同好会により、盛国邸跡推定地に設置された石碑と案内板の除幕式が行われている。このことは京都新聞の記事で知った。これよりその推定地を訪ねることにする。



JR京都駅八条口より東進して須原通に至ると、そこは東之町であるが、その須原通をほんの少し上がる(北進)と、西側に石碑と案内板があった。そのすぐ北側は新幹線のガ-ドである。 


石碑は正面(東向き)に「此附近 平清盛終焉推定地」、右側(北向き)に「此附近 高倉天皇誕生地」、左側(南向き)に「平安京左京八条四坊一三町」と刻まれていた。


平家鎮魂の旅-平清盛終焉の地
 
「平清盛の終焉推定地(高倉天皇誕生地)」と題された案内板には、高倉天皇と清盛の人物が描かれ、その左から


 この地はもと平安京八条大路と鴨川の交点近くで、条坊表記では左京八条四坊一三町にあたります。この付近で平清盛は六十四年の生涯を閉じたと考えられています。その最期のシ-ンは、「平家物語」によってよく知られます。熱病にうなされながらも台頭する政敵源頼朝の追討を望み、その首級を墓前に供えよと遺言するものです。


 清盛終焉の場所については、鎌倉幕府が後世にまとめた記録「吾妻鏡」の治承五年閏二月四日条(1181年)に記載があります。


 それによると、「九条河原口の盛国が家」だとあります。これは清盛の家司、平盛国亭(邸)と思われます。


 平盛国亭とすれば、ここではほかにも重要なできごとがありました。それより二十年さかのぼる永暦二年九月三日(1161年)、後白河上皇の第七皇子憲仁親王が産まれています。のちの高倉天皇です。生母は女御平滋子(建春門院)で、清盛の正室時子の異母姉妹にあたります。清盛が天皇の外戚となるきっかけを得た地といえましょう。


 さて憲仁親王(高倉天皇)の誕生を伝えた同時代の廷臣中原師元の日記(「師元朝臣記」)によれば、平盛国亭は「八条河原」にあったと記されています。先の「吾妻鏡」の記載と異なります。どう理解すればよいのでしょうか。



 歴史学の方法では、のちの関東(鎌倉)でまとめられた記載より、同時代に平盛国亭と身近に接していた廷臣の日記の方が、史料価値は高いと判断されます。そのため、現段階では「九条は八条の誤記」というのが有力です(高橋昌明氏「清盛家家政の一断面」、笠井昌昭氏編「文化史学の挑戦」587頁、思文閣出版、2005年)。当地を清盛終焉の地と認識するのは以上の理由からです。


 この地は平家のふたつの邸宅群、六波羅地区と西八条地区のほぼ真ん中にあたり、両者に目配りをするには好都合だったのかもしれません。


 なおその遺骸は「平家物語」によれば洛東愛宕(現東山区六道珍皇寺付近)で火葬され、摂津国経の島(現兵庫県神戸市兵庫区切戸町付近)、「吾妻鏡」によれば山田の法華堂(現神戸市垂水区西舞子付近)に納骨されました。


 当地は歴史や文学の重要な舞台地にほかならず、永くこれを顕彰するため建碑いたすものです。


2012年(平成24年壬辰)12月、特定非営利活動法人京都歴史地理同好会



と記され、「平安京における平家邸宅」が地図に示されていた。


平家鎮魂の旅-平清盛終焉の地_案内板
 
 

清盛の遺骸のことは、拙著同「畿内/洛中・洛外三の巻き」及び「畿内/摂津西部の巻き」に記している。



歴史の検証に当時の日記は第一級の史料で、盛国邸のあった場所を当地(八条)にしたことにはまったく異論はない。複数の日記が一致する場合は、歴史的事実とされるのが一般的であろう。

捨てられた神輿

『平家物語』巻第一「願立」は、『「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが御心に叶はぬもの」と白河 院も仰せなりけるとかや』で始まる。絶対権力者であった白河院でも、賀茂川の氾濫、賽ころの目、そして、山法師は思いどおりにはならなかったと嘆かれたという。この山法師とは大寺院からの強訴で、『平家物語』では比叡山の山法師が神輿をかついで御所に押し寄せている。そのことは拙著「平家鎮魂の旅~畿内/洛中・洛外三の巻き」に記した。そのとき、山法師たちは重盛の陣に攻め入ったが、武士にさんざん矢を射られている。同巻第一「御輿振」の末尾は、

さて、神輿舁き返し奉り、東の陣頭、待賢門より入れ奉らんとしけるに、狼藉忽に出で来て、武士ども散々に射奉る。十禅師の御輿も、矢ども数多射立てけり。神人、宮仕射殺され、衆徒多く疵を蒙つて、陣頭叫ぶ声は梵天までも聞え、堅牢地神も驚き給ふらんとぞ覚えける。大衆神輿をば陣頭に振り棄て奉り、泣く泣く本山へぞ帰り登りける。

と語られている。「十禅師」とは日吉大社の山王七社に一つ、「梵天」とは、仏教では欲界の上を色界というが、その色界の最も下の初禅天をいう。「堅牢地神」とは閻浮(人間界)の土地を守護する神、「本山」は比叡山のことである。


さて、この強訴については同巻第一「鵜川合戦」に語られているが、ごく簡単に記すと、

 平家一門が権勢を振るった平安時代末期に、加賀国(石川県)の白山神社の末寺の鵜川という山寺で、
 目代の近藤師高が乱暴狼藉をはたらいた。白山神社は師高を流罪にせよと訴えたが聞き入れられなかったので、起こった神人たちは白山神社の神輿を比叡山を経由して都の内裏まで押し寄せたのである。


その後は先に記した。山法師は神輿を振り捨てて比叡山に逃げ帰ったが、道路に神輿を置いてきぼりにされれば、近所の民衆は困るであろう。このことについて、京都新聞社編の「京都・伝説散歩」には、

 ちょうど、いまの麩屋町通押小路までやってきた時である。
強訴が不成功だったせいか、神輿が肩に食い込み、前に進まない。
「・・・面倒なり。このまま打ち捨てて、帰山しては・・・」
僧たちは、神輿を打っ散らかし、一目散に逃げてしまった。
さて、僧たちはそれでもよかったが、困ったのは近くの人たち。
ありがたい神輿を雨ざらしというわけにもいくまい。人々は仕方なく、社をつくり、おまつりしたのだった。
いまの白山神社の社はそのときの一基をまつった跡。他の一基は民家に、
残りの一基も付近にあったそうだが、のち八坂神社に移された。

と記されている。比叡山の山法師より都の民衆の方がよほど信心深いと思われるが、それはともかく、その白山神社を訪ねることにした。


その白山神社は、京都市役所前の御池通を少し西進し、麩屋町通を上がる(北進)とすぐ右(東)側にある。麩屋町通に入ると、九月に行われる秋の大祭が近いためか、白字で「白山神社秋の大祭」と記された青い幟が神社まで立ち並んでいた。

平家鎮魂の旅-白山神社 外観



「白山神社」の額が掲げられ、その下にはしめ繩が施された石の鳥居を潜ると、左(北)側に南向きの、ここにもしめ繩が施された拝殿に参拝した。境内の南側には、色彩が豊かで美しい二基の神輿が安置されていた。

平家鎮魂の旅-捨てられた神輿


先の「京都・伝説散歩」には、白山神社について、「菊理比売らを祭神とし、縁結びの神として親しまれている」と記されている。ところが、ネットによる「京都新聞/ふるさと昔語り」には、

 江戸時代中期、最後の女帝として知られる後桜町天皇(1740~1813)が歯痛で悩んでいた。女官が白山神社から持ち帰った神箸と神塩をつけたところ、たちまち歯痛は治ったという。そこから、白山神社には「歯痛平癒」のご利益があるとされるようになった。

と記されていた。神社の規模はさほど大きくはないが、平安末期からの長い歴史をもち、近辺の住民によって今日まで守られてきたのであろう。


平家鎮魂の旅-白山神社

絵馬館

 

神社を訪ねると、樹木などに願い事を書いた絵馬をよく見かける。大きな神社では大絵馬を見ることがあり、また、絵馬堂があって、『平家物語』に関わる絵を見ることもある。しかし、各神社で見る絵馬はその神社に納められたもので、願い事を書いた小絵馬は別にすると、それほど多いものではない。

 

ところが京都には多くの絵馬を集めて展示している絵馬館がある。その絵馬館は京都市東山区にある安井金比羅宮(「洛中・洛外一の巻き」181頁に記載)の境内にある。このような絵馬専門の展示館は他所ではないであろう。この絵馬館は、元は神社の絵馬堂であったという。それでは入館することにするが、その前に絵馬館でいただいた「絵馬の由来と金比羅絵馬館の誕生」を引用させていただくことにする。

 

 

絵馬とは文字どおり馬とかかわりのある言葉で、私たち日本人の祖先は古くから、神の霊は馬に乗って人界に降臨するという信仰をもっていたようです。したがって馬を神聖視し、神事や祈願にさいして馬を神霊に捧げることも当然として考えられ、ここに生馬献上の風習が生まれたといわれています。(中略)

 

この生馬献上の風習が、経済的な事情によって、生馬→土馬・木馬→板立馬→板絵 と変化していったものと考えられています。

 

絵馬には大きく分けて、大型で扁額式の大絵馬と小型で吊懸式の小絵馬の二つの形式があります。小絵馬の祈願内容が、心の内に秘めた悩みを人知れず神仏にすがって少しでも解消しようとする現世利益的なものが多いのに対して、大絵馬のそれには、画面の銘文によく記されているように、大願成就といった類を堂々と願ったものが多く見られます。

 

絵馬堂の成立時期は不明ですが、室町・桃山時代ごろから大絵馬を奉納することが盛んになり、それにつれて絵馬をかける特定の建物が必要になったのでしょう。

 

また絵馬堂は、一流絵師や専門絵師の手になる芸術的色彩の濃い絵馬を、だれでも自由に、随時鑑賞できる場として、ギャラリ-的な性格をもっていたようです。一方、主に民間信仰的要素と結びついた小絵馬には、大絵馬にはない親近感のある民画としての良さがあります。

 

当「金比羅絵馬館」は日本独特の信仰絵画として美術史上に異彩を放つ絵馬を保存し、華やかな江戸文化出現に一役を買った絵馬堂特有の建築美を、なるべく損なうことなく近代感覚のなかに生かして開館した(昭和51年4月10日)日本初の「絵馬ギャラリ-」です。(末略)

 

 

と記されていた。引用が長くなったが、絵馬についておおよそ理解できたので、入館することにする。

 

絵馬館は一階と二階に分かれ、一階は美術史的に貴重な大絵馬を中心に、また絵解きの小絵馬などが展示されていた。

 

大絵馬は何と言っても迫力があるが、当館には五十数点展示されているという。実はもっと多くあるのだが、長年月で絵が消えてしまい、ここでは状態がよく、貴重なものを展示しているという。

一階では大半が江戸時代のものであるが、この中で『平家物語』を題材にしたものが三点あった。

その一点は江村春甫による「牛若弁慶図」で、図には右側に「奉懸」、中央に「御寳 前」、左端には「明和四龍舎 丁亥九月吉日」と文字が書かれていた。明和4年は1767年であるが、この大絵馬が当館で最も古いものという。


平家鎮魂の旅-絵馬館最古_牛若弁慶図

最も古いとはいうものの、他の大絵馬よりは鮮明で、長刀を構える弁慶、刀を抜かんとする牛若、そして、後ろの橋の欄干などががよく分かる。この大絵馬の下に設置の案内には、「この春甫の作としては島原の角屋の二階座敷にある孔雀牡丹海棠図襖絵がよく知られている」と記されていた。少し横道になるが、島原は当時の京都の遊廓で、その角屋は現在も続いている料理屋(当時は揚屋と称した)である。


 

その二点目も「牛若弁慶図」で、これは当館で最も大きい大絵馬という。こちらの牛若は橋の欄干の上に上がっているが、一点目よりは少し不鮮明である。


平家鎮魂の旅-牛若弁慶図_欄干上の牛若

 

その三点目は「馬上の巴御前」で、この筆者は田中日華であるが、筆者自らが奉納した珍しい絵馬という。文化九(1812)年の奉納で、この絵馬の大きさは1.52×2.12メ-トルである。


平家鎮魂の旅-馬上の巴御前

 

二階へは外側の階段を上がるが、上がって扉を開くと畳の間であった。この二階では、昭和から現在にかけての、主に有名人・芸能人による小絵馬が中心に500点余りが、壁一面を埋めるように展示されている。奉納者は、手塚治虫や藤山寛美、桂文珍、和田アキ子など様々で、各々の人柄や趣向、個性が見られ、一点一点丁寧に見るならば相当の時間を準備しておかねばならないであろう。