絵馬館
神社を訪ねると、樹木などに願い事を書いた絵馬をよく見かける。大きな神社では大絵馬を見ることがあり、また、絵馬堂があって、『平家物語』に関わる絵を見ることもある。しかし、各神社で見る絵馬はその神社に納められたもので、願い事を書いた小絵馬は別にすると、それほど多いものではない。
ところが京都には多くの絵馬を集めて展示している絵馬館がある。その絵馬館は京都市東山区にある安井金比羅宮(「洛中・洛外一の巻き」181頁に記載)の境内にある。このような絵馬専門の展示館は他所ではないであろう。この絵馬館は、元は神社の絵馬堂であったという。それでは入館することにするが、その前に絵馬館でいただいた「絵馬の由来と金比羅絵馬館の誕生」を引用させていただくことにする。
絵馬とは文字どおり馬とかかわりのある言葉で、私たち日本人の祖先は古くから、神の霊は馬に乗って人界に降臨するという信仰をもっていたようです。したがって馬を神聖視し、神事や祈願にさいして馬を神霊に捧げることも当然として考えられ、ここに生馬献上の風習が生まれたといわれています。(中略)
この生馬献上の風習が、経済的な事情によって、生馬→土馬・木馬→板立馬→板絵 と変化していったものと考えられています。
絵馬には大きく分けて、大型で扁額式の大絵馬と小型で吊懸式の小絵馬の二つの形式があります。小絵馬の祈願内容が、心の内に秘めた悩みを人知れず神仏にすがって少しでも解消しようとする現世利益的なものが多いのに対して、大絵馬のそれには、画面の銘文によく記されているように、大願成就といった類を堂々と願ったものが多く見られます。
絵馬堂の成立時期は不明ですが、室町・桃山時代ごろから大絵馬を奉納することが盛んになり、それにつれて絵馬をかける特定の建物が必要になったのでしょう。
また絵馬堂は、一流絵師や専門絵師の手になる芸術的色彩の濃い絵馬を、だれでも自由に、随時鑑賞できる場として、ギャラリ-的な性格をもっていたようです。一方、主に民間信仰的要素と結びついた小絵馬には、大絵馬にはない親近感のある民画としての良さがあります。
当「金比羅絵馬館」は日本独特の信仰絵画として美術史上に異彩を放つ絵馬を保存し、華やかな江戸文化出現に一役を買った絵馬堂特有の建築美を、なるべく損なうことなく近代感覚のなかに生かして開館した(昭和51年4月10日)日本初の「絵馬ギャラリ-」です。(末略)
と記されていた。引用が長くなったが、絵馬についておおよそ理解できたので、入館することにする。
絵馬館は一階と二階に分かれ、一階は美術史的に貴重な大絵馬を中心に、また絵解きの小絵馬などが展示されていた。
大絵馬は何と言っても迫力があるが、当館には五十数点展示されているという。実はもっと多くあるのだが、長年月で絵が消えてしまい、ここでは状態がよく、貴重なものを展示しているという。
一階では大半が江戸時代のものであるが、この中で『平家物語』を題材にしたものが三点あった。
その一点は江村春甫による「牛若弁慶図」で、図には右側に「奉懸」、中央に「御寳 前」、左端には「明和四龍舎 丁亥九月吉日」と文字が書かれていた。明和4年は1767年であるが、この大絵馬が当館で最も古いものという。
最も古いとはいうものの、他の大絵馬よりは鮮明で、長刀を構える弁慶、刀を抜かんとする牛若、そして、後ろの橋の欄干などががよく分かる。この大絵馬の下に設置の案内には、「この春甫の作としては島原の角屋の二階座敷にある孔雀牡丹海棠図襖絵がよく知られている」と記されていた。少し横道になるが、島原は当時の京都の遊廓で、その角屋は現在も続いている料理屋(当時は揚屋と称した)である。
その二点目も「牛若弁慶図」で、これは当館で最も大きい大絵馬という。こちらの牛若は橋の欄干の上に上がっているが、一点目よりは少し不鮮明である。
その三点目は「馬上の巴御前」で、この筆者は田中日華であるが、筆者自らが奉納した珍しい絵馬という。文化九(1812)年の奉納で、この絵馬の大きさは1.52×2.12メ-トルである。
二階へは外側の階段を上がるが、上がって扉を開くと畳の間であった。この二階では、昭和から現在にかけての、主に有名人・芸能人による小絵馬が中心に500点余りが、壁一面を埋めるように展示されている。奉納者は、手塚治虫や藤山寛美、桂文珍、和田アキ子など様々で、各々の人柄や趣向、個性が見られ、一点一点丁寧に見るならば相当の時間を準備しておかねばならないであろう。