平庵の秘教レポート③医療の三様相ついての仮説 | 平庵 の ひとふたみ

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平庵の秘教レポート③医療の三様相ついての仮説

 

 

2020年12月12日に行われた、第5回エネルギー医学インスティテュート(IEMJ)セミナー「エソテリック・ヒーリングの神髄」に参加しました。

 

神尾先生の講演は、「通常科学で扱う肉体~物質を超えた現象に対する2つのエネルギー医学的アプローチ」には「上からのアプローチ 形而上学および経験論的、界層論的」と「下からのアプローチ 科学的、量子論的」があるというスライドから始まりました。

 

そして、形而上学的アプローチを普及させたも『バイブレーショナル・メディスン』(リチャード・ガーバー著、上野圭一訳)を紹介されました、その表紙扉に「人間を向上させるために沈黙の作業を続けている霊的階層構造全体に本書を捧げる」という一文は、著者のリチャード・ガーバーが秘教徒であことの宣言と解釈できることを指摘されました。

 

『バイブレーショナル・メディスン』は、エーテル体を扱ったエネルギー医学を解説した書であり、『バイブ レーショナル・メディスン』だけでなく、あらゆるエネルギー医学は基本的にエーテル体を扱っているはずであるという論旨で講座が進みました。

 

講座の「医療と教育の関係を考える」のスライドでは、「治療の儀式に従う過程は行うべき仕事の一部ではなく、治療家と患者の関係が基本的に教育的であることが分かるであろう。それは病んだ人間の肉体の状態によって鍛え上げられる教育ではなければならない。」という一文とともに、教育と医療の関係性が示されました。

 

『バイブレーショナル・メディスン』の図33 健康(ウエルネス)/疾病連続体では、直線上に、「早期死亡、機能不全、症状、徴候・(ニュートラル点=疾病もウエルネスも存在しない状態)・気づき、教育、成長、高レベルのウエルネス」の連続性が示されています。

それに対して、神尾先生は、医療は量子医療を含めて「横軸のステートの改善」であり、「ひとつの界層での動き」であり、養生とも言えると指摘されました。

一方、教育は界層を上げるという「縦軸のステートの改善」である。エソテリック・ヒーリングの「治った」は、「魂の気づきの受け止めにより」縦軸にステートの改善を行うことであり、症状が不変でも治癒することがある。こういった横軸と縦軸の関係を、神尾先生は提示されました。新しい時代の教育では、魂とのつながること(アンターカラナの建設)が教育の目標になるそうです。

 

アンターカラナについて秘教では次のような記述があります。

「教育とはアンターカラナの科学である。この科学とこの用語は、このように橋を架ける必要があるという真理を表わす秘教的な表現方法である。アンターカラナとは、ーー瞑想と理解と魂の魔術的な創造活動を通してーー人間が自分のマインド性質の三様相の間に建設する橋のことである。したがって、来たるべき教育の第一目標は以下のようになるであろう。

1 人間の内的な構造、特にエーテル体とフォース・センターを正しく理解することでマインドと脳との間に整列を作り出すこと。

2 脳とマインドと魂の間に橋を建設つまり構築し、このようにして、内に宿る魂の着実に発達していく具現体である統合されたパーソナリティーを生み出すこと。

3 パーソナリティーにイルミネーションをもたらすことができるように、低位マインドと魂と高位マインドの間に橋を建設すること。(12-6)」(『トランスヒマラヤ密教入門 第1巻』P.155 アリス・ベイリー著、アート・ユリアーンス編、土方三洋編)

 

魂が進化すれば、肉体的に変化がなくても(ないように見えても)ヒーリングは起こりますので、縦軸のステートを改善させる(向上させる)教育は重要です。さらに、神尾先生はエデュケア(教育的治療)ということが、「縦軸+横軸のステートの改善」であり、「界層が上がること」と「疾病の改善」の両方が同時に起こる斜め上への進化ということを示されました。

 

魂の気づきを受け止め、界層を上げると症状が不変でも(不変のように見えても)、治癒になるという視点は『バイブレーショナル・メディスン』を超えた理解です。秘教を学んでいくと理解できることです。

 

私は教育と医療の視点から死生学について、高校の恩師とディスカッションしたことがあります。恩師である高橋誠先生は慶應高校の社会科で「死への準備教育」を題材に高校生に死生学を教えていました。私は医師になって十年以上経っていましたが、漠然と医療に対する不十分さを感じていました。交換メールを行って、意見交換をする中で、私なりに当時の医療の問題点を明らかにすることができたと思います。

その交換メールを『キュアからケアの時代へ 「死への準備教育」を教える慶應高校教師と教え子医師との交換メール』という一冊の本(自費出版。九州大学法医学部内 大道学館出版部)にまとめたのが、2000年でした。

 

神尾先生の『秘教から科学へ』が出版されたのも、リチャード・ガーバーの『バイブレーショナル・メディスン』が日本で出版されたのも2000年ですので、私はただならぬご縁を感じていました。この三冊は我が家の本棚では並んでいますが、私の中では2000年出版の三様相です(笑)

 

 

20年以上前の私は、『キュアからケアの時代へ』にて、

「癌患者さんの苦痛を取り除くための私達の手段をまとめると、御家族を含めた精神的な援助、苦痛の緩和、モルヒネを含めた疼痛の除去、薬物による精神的な安定などが、私達が癌患者さんに提供できるものだと思います。そして、Cureからcareの時代へを書くようになりまして、医師が患者さんの手を握ってあげることも重要だと思うようになりましたが、いきなり医師が患者さんの手を握って「大丈夫ですか、辛くありませんか?」とお伺いするのは、日本の風習に照らし合わせてみて奇異な感じがします。従いまして、脈を取ったり、むくみがないか足を触ったりする時は患者さんにふれますので、そういった時に、私は患者さんに「大丈夫ですか、辛くありませんか?」とお伺いするようにするようになりました。」(P.180 「由らしむべし、知らしむべからず」ー癌の告知と疼痛の除去-)

「医療は文化の一部、医学は科学の一部であると考えますと、文化・科学が今日ほど発達していなかった時代に未発達の医療や医学の隙間を埋めていたのは人の心ではなかったのかと考えました。医療や医学が進歩するにつれ、医療現場には医療器械や薬品が増た結果、人の心を差し挟むスペースがなくなったと錯覚してしまい、私達はあえて医療に心を介入させることを控えてしまって来たのかもしれません。医療の中に人の心を積極的に介入させるのに必要なものは、医薬品でも医療機器ではなく、生と死を理解し見つめる勇気と道徳観ではないかと思います。私にとって、死の理解には高橋先生の「死の準備教育」が大変参考になりましたし、道徳観は論語をはじめとする東洋の哲学書でした。」(P.188 論語読みの論語知らずにならないために)

ということを書いています。

 

この時点の言葉遣いは論語的なのですが、論語と秘教の違いは別として、過去の延長に現在があります。過去の私が模索していたもののひとつは、秘教的には「愛」だったことに、最近、気がつきました。

 

秘教では「愛とは感傷でも情緒でもない。また、欲求でもなければ、日常において正しく行動したいという利己的な動機でもない。愛とは、世界を導き、統合と和合と包括ーーこれらが神自身を活動へと促すーーへと導くフォースの行使である。愛とはーー人間の性質に固有の利己性ゆえにーー育成が困難なものである。あらゆる生活状況で愛を応用することは難しく、愛を表現するためにはあなた方は極限まで与えなければならず、利己的な個人活動を根絶しなければならない。(5-10)」(『トランスヒマラヤ密教入門 第3巻』P.206 アリス・ベイリー著)という表現もあります。

 

現時点で完成された愛を表現することは無理ですが、愛の要素を持った対応で医療行為を行うことは可能です。私の感じているものは、愛の要素を持った真心のようなものかも知れません。

魂の進化はゆっくりで良いのかも知れませんが、医療現場は待ったなしの連続であり、一期一会が日々繰り返しています。明日ではなく、今日の癒やしを患者さんに提供するには、それも現代医学的に改善が見込めない患者さんへの医療において提供するには、「愛」が一番大切なものだと思います。

 

無償の愛で患者さんに接すれば、どんな状態だとしても、何らかの癒やしが得られます。それが死に行く人であっても、秘教的な知識があれば何でも対応できます。

 

実際の愛の表現は、話し方の声の調子だったり、患者さんを思う心が表れの言葉だったり、仕草や表情、目配せ、さらには握手などの行為を含めて、現代医学の教科書には記載がない(少ない)ものが多いです。

 

私が気づいた「愛」を、神尾先生の図に加筆すると文末の図になりました。

今後も学びを続けたいと思います。

 

 

神尾先生の図に加筆するのは躊躇がありましたが、自分の意見を出すのは恩返しでもあります。臨床現場では、医療と教育に「愛」の要素が入ると思いましたので、このように改変しました。医療、教育、愛を、医療の三様相と表現して良いのかということと、この愛がどこから来るのかということは、今後の学びで明らかにしたいと思います。

 

ご来訪ありがとうございます。