はじまりは仏教から。
今回は私が武術を始めたいきさつを書かせて頂きます。
おそらく何回かに分けての投稿になると思います。
実は私は武術の稽古を始める前は長い間、ほとんど独習ではありますが、瞑想修行をしておりました。
鼻から入る呼吸に意識を沿わせ、感知する点を段階的、狭めていって、最後は鼻先の一点で呼吸で感じようにする、呼吸瞑想と呼ばれるものです。これを主に行なっていました。
ともすると、妄想、雑念にとらわれる意識を呼吸を意識に強制的に連れ戻すという作業をひたすら繰り返します。
意識は散漫なもので、あっという間にふわふわ漂ってしまうので、ふわふわした、連れ戻す、ふわふわした、連れ戻すの繰り返しです。
そもそも、なぜ瞑想を始めたのか。
一言で言えば仏教に強く傾倒していたからです。
仏教と申しましても、テーラワーダ仏教、初期仏教、大乗仏教などあり、さらに密教、禅宗、浄土教、など仏教という言葉一つで全てをいい表すのはとても不可能です。
そう言った定義や教義のいってみれば仏教学的な話はここでは触れませんし、私ごときの知識で手に追えるものではござません。
私にとっての仏教経験の入り口は、もっともお釈迦様(ゴータマブッダ)の教えに近いとされている、南伝仏教(インドからスリランカ、タイなどを経由して世界に伝播されたもの)からが始まりでした。
信仰的な色彩は強くなく、人間に感情が発生生成するプロセスを冷静に観察する教えと申し上げても間違いではないと思います。
ではどうして仏教に傾倒していったのか。
それは、精神的にもう、生きることがほんとうにしんどくてしんどくて仕方がない状態になってしまったからです。
目の中に入れても痛くないほどの可愛い一人息子が、高校生ながらできちゃた婚によって、ある日突然家を出たきり、そのままそれきり帰ってこなくなってしまった。
その事がきっかけとなり、尊敬していたと思っていた父親か実は典型的なパワハラ親で、半世紀近くも、パワハラを受け続けていた事実に気づかざる得なくなってしまった。
そしてその事が自分の人生に与えて続きていた苦しみの構図を思い知る。
幼少時から機能不全家族の中で生きてきたことがわかってしまった。
今で言えば児童相談所の要保護児童直行のような環境下であったこと。
。。。次回に続きます。
