サー・ネヴィル・マリナー、死去。


享年92。


ついこの間まで、N響に姿を見せていたのに…


かつて福岡で聴いたことがあったなぁ。


R.I.P.

開店以来お世話になっているクラシック通販ショップのアリアCDさん(店主さんがまだ独立前に、大手ショップの福岡店のクラシック担当でいらしたということもご縁がありました)から、待望のCDが到着



シューマン  ヴァイオリン協奏曲

クーレンカンプ(Vn)
ベーム&ベルリン・フィル

1937年11月26日のライブ。


このライブは短波放送で全世界に中継されたことは知られていますが、その録音が残っていたとは!


とっても豪華なCDで、たった1枚なのにBOXに入っていて、しかも100頁に及ぶブックレット(写真も豊富)が附されてます。
これで3000円なら安い買い物。

さすがはクラシック専門店だけあって、タワーレコードなどの大手よりも早い入荷です。


この作品の紆余曲折はご存知の通り。

シューマンの熱意にもかかわらず、名手ヨアヒムも、この作品にはいい顔をせず封印され、ヨアヒムの死後にベルリンのプロイセン国立図書館にその他の遺品とともに売却され、そのまま眠りにつきます。

事態が動いたのは、1930年代に入って。
ヴァイオリニストのダラニ(彼女の大伯父はヨアヒム)が、降霊術(!)でこの幻の作品を発掘。

当時の図書館の学者シューネマンの校訂で出版の運びとなります。


他方で、シューマンの遺族は出版と初演に反対。

作曲家のプフィッツナーによると(彼は大のシューマン好きで、シューマンの多くの交響曲の世界初録音もしている)、交流のあったシューマンの末娘のオイゲーネが「シューマンの間近にいたクララ・シューマン、ヨアヒム、(この作品のヨアヒムによる試奏のピアノ伴奏を務めたと思われる)ブラームスが、シューマンの名誉にならないと判断したこの作品」の発表にかなり立腹していて、初演したい側とかなり揉めたそう。

因みにこのシューマンの末娘は、1938年まで存命だったというのですから、遠い昔の歴史の中の作曲家シューマンが、なんか身近にすら感じます。


結局、初演は可能になりましたが、本来初演すべきダラニはドイツ系ではないということでナチスの妨害に遭い、当時のドイツのヴァイオリニストとして高く評価されていたクーレンカンプに委ねられます。

なお、この際にはシューマンのスコアにはクーレンカンプ自身とさらにはヒンデミットの手により、かなり改訂が加えられ、これを初演後に、シューマンのスコア通りの演奏でアメリカ初演を行ったメニューインが批判の声明をだしてます。


さて、この初演はこのブックレットによると、帝国文化院とドイツ労働戦線の共同の年次大会の中で行われたもの。

プログラムも載っていて、この初演とともに、ゲッベルス(文化院の上部組織の宣伝省の大臣)とライ(労働戦線のトップ)の長々とした演説もあったようです。

さらに生々しい写真があって、ハーケンクロイツの掲げられた座席にヒトラー、副総統のヘス、ゲッベルス、ライ、宣伝省次官のフンクが居並ぶショットは、この初演がいかに政治色が強かったかを物語ってます。

これだけ見ると、後にナチスとの関わりを否定したベームも、それなりに付き合うことを余儀なくされていたことが分かります。

演奏の前後には放送局のドイツ後とフランス語によるアナウンスがあり、この放送がヨーロッパ各地だけでなく、エジプトや日本、オーストラリア、パラグアイにまで中継さらていたことが分かります。


さて音質ですが、思いの外に良いですね。

第2楽章の途中で何かが倒れたと思われる物音が2回と、録音技師か誰かの声がはいってますが、他は年代にしては悪くないです。
静かな箇所では確かにノイズも気になりますが、恐らくクーレンカンプに近いところにマイクが据えられていたのでしょう、ソロがよく拾えています。


クーレンカンプはこの直後に当時ナチスの事実上の国策会社であったテレフンケンに商業録音をしていますが、指揮者のベームは独EMIと契約していたため、テレフンケンと契約していたシュミット=イッセルシュテットに変更となっています(オケは同じ)。


とにかく、歴史的な初演の録音というものはそうは多くはないですし、ましてやこういう大物の録音となればほんとうに貴重です。

今月末にはタワーレコードなどにも並ぶようですし、あるいはアリアCDの会員になられて購入されても宜しいかと思います。

今日は午前中で仕事が終わりなので、この時間にup(^-^)


さて、


ベートーヴェン 交響曲第5番

フルトヴェングラー&ベルリン・フィル

1943年6月27-30日の録音。


プログラムは他にやはりベートーヴェンの第4交響曲と「コリオラン」。

コンサートと放送用録音とが同時期に並行して行われ、第4番はライブと放送用の両方の録音が存在するのに対して、第5番は放送用の録音しか存在していません。

それにしても、第4楽章のコーダのアッチェレランドの凄まじさたるや!

1947年の戦後復帰コンサートの演奏もなかなかのものですが、こちらも負けず劣らずです。
ベルリン・フィルもよく食らいついてます。


このアッチェレランドに絡めるわけではありませんが、フルトヴェングラーがスピード狂だったことは有名で、ポツダム付近にあった自宅からベルリンまでを猛スピードで飛ばし、警察官が「今度こそ捕まえてやる!」と息巻いてたそう(^^)

さすがに晩年はエリーザベト夫人が運転してたそうです。

しかし長身のフルトヴェングラーが、狭い車に窮屈そうに収まっている写真には、ちょっと笑ってしまいます。


因みに戦前にフルトヴェングラーがベルリン国立歌劇場で振った後、居合わせたリヒャルト・シュトラウスに「一緒に乗っていかないか?」と声をかけたそう。

シュトラウスは「君が運転するのか?」と問うと、「もちろん」とフルトヴェングラー。

半信半疑ながらも乗り込んだシュトラウス。

しかし次の瞬間、思いっきりフルトヴェングラーがアクセルを踏んだ車は、前の車に衝突。
衝突された車は、あろうことか、第二帝政崩壊までドイツ帝国を構成する国の一つであったロイス侯国のプリンスの車。


「ドジが!」


シュトラウスは二度とフルトヴェングラーの運転する車には乗らなかったそうです。

しかし、フルトヴェングラーはいつ免許を取得したのかしら?



もう一人は、スピード狂というわけではないのですが、車好きのこの方


デニス・ブレインのソロによるモーツァルトのホルン協奏曲。

伴奏のカラヤンとは、音楽の趣味も、そして車というプライベートの趣味も合って、フィルハーモニア管時代には仲が良かったとか。

譜面台に車の雑誌を置きながら演奏したというのは、あまりにも有名な逸話。


カラヤンの後にフィルハーモニア管にやって来たクレンペラーとは、音楽の趣味が合わなかったようで、ヒンデミットのホルン協奏曲の録音に際して、クレンペラーの遅いテンポに苛立ち衝突。

結局、録音はご破算に。

そしてご存知の通り、ブレインはエディンバラ音楽祭からの帰路、愛車で事故死。


ブレインには残酷な言い方かもしれないのですが、彼がいなくなったことで、クレンペラーはフィルハーモニア管で大輪の花を咲かせることができたのかも知れません。

オケの看板プレーヤーと首席指揮者が衝突したままということはあり得ず、どちらにしてもいずれかがフィルハーモニア管を去っていただろうし。


因みにクレンペラーは、ブレインの後任のホルン首席となったアラン・シヴィルとモーツァルトのホルン協奏曲全曲を残しました。