ちょっと長くなりますので、時間のない方や、興味のない方は、どうぞスルーしてやって下さいm(__)m




過日、割烹着の彼女が記者会見されてましたね。


さすがに全部見てる時間はなく、仕事の休憩時間に職場で流れてたテレビをチラッと観たのと、夜のニュースで観た程度です。

なので、すべてを観たわけではないので、正確に内容を把握はできませんでした。


ただ感じたのは、彼女と彼女の代理人の弁護士は、理研の言う「捏造」や「改竄」の法的な根拠にフォーカスをあてたいという意図を強く持ち、記者会見をそちらの方向にリードしていこうとしてたように感じました。

もちろん、彼らの立場やお仕事、理研から懲戒処分が下った場合に彼女の地位保全を求めるであろう先々の法的闘争を考えれば、至極当然なのかも知れませんが…



個人的には、例の細胞の存在の有無には全く興味がないし、法的な問題や法廷闘争にも全く興味がありません。

興味があるのは、彼女の学者としての学問に対する倫理観です。


その点で、遺伝子の写真の切り貼りの話は興味深かったです。


理研はこの写真の切り貼りを、きれいに見せたいとの意図を彼女がもって行った故意の行為で、従って改竄という考え。

他方、見易くするためのもので、結果は変わらないので、「悪意はなく」、改竄に当たらないというのが彼女の主張。


ザックリと言ってこんな感じでいいのかしら?


また、論文撤回に関して彼女は、「撤回すれば、著者が誤りであったことを世界に認めることになり、結果は正しいのだから撤回は出来ない」みたいなことを言って、撤回を拒否されてましたね。


どうも、彼女の話を聞いていて、彼女の考えに通底していることは、「結果さえ良ければ、あとは全てよし」という考え方のような気がします。


学問の世界では、到底通用しない考え方だと思うけど。


ちょっと程度の低い話になりますが、中学の数学とかで、「この三角形が二等辺三角形であることを証明しなさい」とかいう論述式の問題がありますよね。

彼女の考え方は、いきなり「Answer 二等辺三角形」と、途中の計算式や論理はすっ飛ばしても問題ない、というようなものに感じられます。

センター試験のマークシートなら、それもアリなのでしょうが(笑)

数学が大嫌いな私が偉そうに言えた話でもないんですが(^-^;)



観念の世界の学問と言われる文系の学問の世界ですら、論拠・出典はしっかりと記さなければなりませんし、況してやそれに勝手に手を加えるなど、論外も論外。

いわんや、即物の世界の理工系の学問では、モノこそが大切だろうに、それに手を加えるとは…


因みに、数少ない理系の友人に、「もし、自分の主張を裏付ける実験結果の写真が、きれいなものが撮れなかったら、どうするの?」と訊くと、答えは2パターンでした。


「きれいな写真が撮れるまで実験を繰り返して、全て提示する」

もしくは、

「きれいでなくても、それが自説を証明するのに瑕疵がなければ、そのまま掲載する」



真っ当な考え方だと思います。

彼らは、博士号はおろか修士号すら持たない学部卒で社会人になった人たち。

そんな人たちでも当たり前のことを、早稲田やハーバードを出て理研で働くレベルの博士号を持つ彼女が出来てないというのは、どうにも合点がいきません。


・原文・原典、実験・観察結果には手を加えない。
・出典や典拠は必ず明記する。
・自分の書いたことと引用文とは、はっきり区別をつける。


まともな大学のゼミでの指導を受けていれば、文系・理系、学部を問わず誰しも一番最初に学ぶ初歩かつ最低限のマナーです。


法的にどうとかではなく、学問の倫理としての基本中の基本です。



「悪意のない」「単純なミス」



悪意の有無が問題ではなく、証拠に手を加えてること自体がアウト。

論文のキモとなる写真を取り違えるというのは、「単純なミス」ではなく、学者としての根本的な資質を否定されるレベルの大失策。


100歩譲って、本当に細胞が存在したとしても、学問的にはアウト。



私はそんな風に思います。




個人的な例なんですが…


私が研究しているのは、18世紀から19世紀のオーストリア・ハプスブルク帝国の歴史です。

当然、ウィーンの国立公文書館で、当時のオリジナルの史料を少なからず見ます。

内容は、時の皇帝の命令や手紙、閣議(この時代のオーストリアにはまだ内閣制度がないので、閣議もどきの会議)の議事録、官僚の上奏文・報告書など、様々です。

この時代のドイツ語の手書きの文書は、独特の筆記体にさえ慣れて読めるようになると、文法も単語の意味も今日のドイツ語とほぼ同じなので、ドイツ語が解る方なら、割と容易に読めます。

少なくとも、同じ時代の、即ち江戸時代の文章をスラスラ読める人はそうはいない日本語とは、非常に対照的です。


とは言え、ドイツ語もさすがに今から200年以上も前になると、多少の違いはあります。

若干例を挙げると:

①tとth

例えば、「赤い」は今日ではrotと綴りますが、この時代はrothと綴り、黙字のhを残してます。

他にもTeil(部分)がTheilだったり、teuer(値段が高い)がtheuerだったり。


②DとTの混同

例は少ないですが、例えばDeutschland(ドイツ)がTeutschland。


③CとKの混同

Kasse(金庫)がCasse、Kultur(文化)がCultur。
(これには外来語のCの綴りをKに置き換える過程という事情も)


④eiをey

例えば英語のbe動詞にあたるseinをseynと綴ったり、前置詞のbei(~の側で、~の際には)がbey。


⑤3格の男性及び中性名詞の語尾に付くe

今日では、eは付けませんが、慣用句では今日でもその名残が見られますね。

im Jahre 2014(2014年に)
im Lande(国内で)


⑥前置詞の格支配が異なる

例えば、ohne(~無しに、英語のwithout)という前置詞は、今日では4格支配ですが、18世紀くらいまでは3格支配も通用していました。

なので、今日ではohne dich(君なしで)と綴るところをohne dirと綴ることもあります。


⑦前置詞の後置

前置詞なのに、なぜか名詞の後に来るという現象(笑)

meiner Meinung nach(私の意見では)なんかは、今日でも堅い表現で使われますね。
本来なら、nachはmeinerの前にきます。



ざっとこういう状態のなか、18世紀後半の皇帝ヨーゼフ2世(「アマデウス」に登場する例の皇帝)は、ドイツ語を広大なハプスブルク帝国全体の官庁用語にします(しばしば誤解されてますが、一般国民の公用語化ではありません)

(右がヨーゼフ、左が弟で次の皇帝のレオポルト)



彼が手始めに行ったのは、官僚養成のために、大学での講義でドイツ語の統一した文法の教科書のようなものの作成。

要は、それほどにドイツ語はまだまだ文法的に統一されてなかったということです。
(今日でも、北ドイツとオーストリアを含む南ドイツとでは、物によっては単語も違いますし、文法、例えばdassで導かれる副文で接続法1式を用いるか否か、過去の出来事を述べるのに、過去形を多用するか、それとも完了形を多用するか、など)



ダラダラと古いドイツ語の話をしましたが、手を加えてはいけないという話に戻ります。

つまり、この時代のドイツ語の文章をそのまま私が自分の論文内で引用する場合、例えば「原文ではrothと綴ってあるけど、今日では使わないからrotに代えてしまおう」とか、「ohne dirは今日の文法ではおかしいからohne dichに代えてしまえ」ということは、やってはならないことです。

もちろん、その時代でも今日でも、その単語なり前置詞の持つ意味は、基本的には同じです(彼女流に言えば、結論は変わらない)。

でも、だからと言って今日風の綴りや文法に直す(「見易くする」)ということはやってはならず、オリジナルに書かれてるように引用してこなければなりません。


あるいは、原文内に誰が見ても明らかなスペルミスがあるとしても、それを引用文として使用する場合には、勝手にスペルを修正してはいけません。

そのまま引用するか、あるいはそのスペルミスしている単語の直後に(ママ)とか(原文のママ)とかを挿入するくらい。


因みに、文学部のそれも歴史の博士号なんて、実証性という点では、理工系に及ばないだろう、とイメージで思われる方もいらっしゃるでしょう。


いいえ、同等かむしろ逆なくらい。


どういうことかというと、例えば彼女のように論文に、自説を証明する実験のメソードを書いたとします。
しかし、他人がそのメソードに従って本当に可能かどうか確認するために実験を行おうとすると、一般に数日から1週間、物によっては月単位になると聞きます。


対する、歴史学。

私たち歴史学者が引用した原文の出典に関する情報は、もちろん論文に必ず記載しています。

私なら、自分が引用した原文について、例えば「オーストリア国立公文書館の○○というタイトルの何番のカートンに収蔵」と記してます。

もし、私の引用に疑義を抱く人は、そのカートンを探して、その原文を見て頂ければいいわけです。

要は、物に容易にアクセスできるので(少なくともウィーンにいれば)、理系の実験なんかと比較にならないくらい簡単に短時間で確認出来てしまいます。

あるいは、原史料でなくて、書籍なら国内外の図書館なり、昨今は著作権の切れた書籍ならネット上でも簡単に確認出来てしまいます。

別にだからというわけではないですが、論拠は厳格にします。

そういう意味では、実験とかしち面倒くさいことをしなくても、直ぐに現物で確認出来てしまう文系は、理工系と同等かそれ以上に厳格です(自己擁護するわけではありませんが…)。




「見易くする」

「どうせ結論は変わらないんだから」




彼女の研究している分野とは最も縁遠い文系でも、そんな理屈は通用しません。

ちゃんとここまで厳密にやります。

それが学問であり科学です。



「見易くする」は、学問の世界以外の世間一般では親切なことに映りますが、学問の世界ではそれは原文・実験結果・観察結果に手を加えたと映り、その研究の信頼性を著しく毀損します。



長々と書き連ねましたが、もしかしたら、本当に例の細胞は存在して、彼女はそれを200回以上も生み出せた実験の天才なのかも知れません。

職人の世界では、論理もへったくれもなく「コツ」でモノを作ることは、ごく日常にあることだと思います。


ただ、学問の世界では、結論とプロセスは同じくらい大切で、切っても切り離せないもの。

でも、彼女はプロセスは些末なことで、結論さえあれば、それでいい、という考えをお持ちのようです。

細胞作製職人としてはともかく、やはり研究者しては、根本的な基本的資質を欠いたまま(学ばないまま)、今日に至ってしまったと言わざるを得ないと考えます。


彼女は、まだそのことに気づいてないのかしら?


いろいろ残念です。



私は、彼女と細胞に関する話題にはもうお腹一杯ですが、来週は上役の人の会見があるそうですね(苦笑)


それにしても、マスコミの好きな「リケジョ」とか「~女子(男子)」、「美魔女」とか、ホント下らないゴミみたいなレッテルですね。




長々と失礼いたしましたm(._.)m





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