理研の割烹着の彼女、ジェットコースターのような2014年ですね。

まだ暦は3月だというのに…



私の友人から、「お前も学位論文を書いて博士号を取ってるんだから、どう思う?」と質問されました。



う~ん、まず例の彼女とは分野は正反対の文学研究科で取得した博士号なので、内容に関しては比較できないし、そもそも噛み砕いて説明してくれてるはずのニュースや新聞の記事を読んでも、件の細胞の意味が分かってないので、チンプンカンプン。

「なんか、スゴいものなんだろうなぁ、でも(ips細胞も含めて)人間の倫理として良いの?」というイメージの代物です。



因みに文学研究科の博士号は、医学、工学、理学、法学、経済学など様々な分野の博士号の中でも、最も取得が困難というデータがあります。

難易度という意味でなく、取得に要する年数の話です。

他の学問のように、実験や観察、データ収集や分析とは異なり、ひたすら文献や史料を読む作業なので、コンピュータで処理できる工程が圧倒的に少なく、他の分野に比べて、どうやっても時間はかかります。

修士課程が2年、博士課程が3年で、システム上では、現役で大学に入学した人なら27歳で博士課程を修了し、学位論文を提出し、博士号取得となりますが、まずそんな人はいません。

大抵は30歳くらいです。

そのくせ、社会でこれほど役に立たない文学博士号という学位は他にない(爆)


とは言え、学部の卒業論文(学士論文)は「読書感想文」、修士論文が「卒業論文」と大学関係者から揶揄される昨今、若手の学者(の卵)はどうあっても学位論文を書いて博士号を取得しなければならないのです。


私の師匠くらいの世代までは、博士号は学者としての集大成で研究生活の終盤に書くのが普通したが、今やスタート地点ですからね。
(というわけで、指導教官が博士号をもってないのに、教え子は博士号を持っているという逆転現象もしばしば)



それはさておき、話題となっているコピペ問題。


コピペという言葉があまり良い意味で使われないので、ネガティブなイメージが湧きますが、「引用」という言葉に置き換えるなら、これは学問の世界では普通のこと。

逆に、引用の無い論文なんて、あり得ないし、学問的に信用できません。

どんな学問の分野でも、先人の成果の上に研究は成り立つので、先人の成果を引用した上で、自論を展開するのがむしろ礼儀というか学問上の作法。

問題は、引用元をちゃんと明記しているか否かで、明記してさえあれば、学問の世界では引用元の許可を得る必要はありません。

だから、彼女が100頁に及ぶ学位論文のうち、20頁がアメリカの公的機関のサイトのコピペだったと報じられてますが、これも引用した旨を記してさえいれば、なんら問題はなかったのです。
(もちろん、学位論文の20%をたった一つのソースの引用が占めるというのは、そもそも彼女の研究者としてのオリジナリティがあるのか?という別の問題がありましょうが…)。


引用時に必要な記載項目は、日本語文献からの引用の場合は

①書籍
著者名(訳本なら訳者名も)、書籍名(巻数とかがあればそれも)、出版社、出版年、そして引用した頁。
さらに、版を重ねたりしていれば、第何版かも付します(でないと、版により頁は異なるので)。

②論文
著者名、論文名、その論文が掲載された学術雑誌名あるいは論文集名(この場合、論文集の編者名も)、号数や巻数、その論文が掲載されている頁、そして引用した頁。


洋文献の場合

①書籍
日本語の時と同じですが、一般に出版社の代わりに出版地(例えばニューヨーク、ロンドン、ベルリンとか)を付します。

②論文
これも日本語の時と同じ。



これは、学部の卒業論文であれ、博士号取得の為の学位論文であれ、学術雑誌への投稿論文であれ、共通の最低限のルールです(法律があるわけではないですが)。



しかし、こうした基本的なルールを知らなかったのか、怠っていたというのは、早稲田出の名門の理研の研究者とは、とてもではないけど思えません。


学位論文でこうだったなら、当然修士論文、学士論文、その他の投稿論文についても、同様の疑念が湧きます。

これはもちろん彼女自身に最も大きな責があるでしょうが、歴代の指導教官にも責任はあるでしょう。

さらに言えば、そういう人物を採用した理研も問題ありと言えるかも知れません(そうでなくても、理研は度々不祥事が発覚してますし)。

ノーベル賞受賞者という金看板を武器に(傘にきて)、科学に金を出せと政治に迫ってきた(学問への国の投資は私も賛成ですが)野依理事長も、仮に不正があり、然るべき結論が出た段階で、何らかの自らへの処分は必要でしょうね。

なにしろ、あれだけ口をきわめて彼女を記者会見の場で批判したのですから、その彼女が属する組織の長としての責任もまた批判されるべきでしょう。

顔をみたこともない一社員がやったことに社長は関係ないと頬被りすることは、一般企業では許せませんよね。

科学者の倫理以前に、人としての倫理として。



しかし、コピペ問題はともかく、驚いたのは、現在出ている学位論文は下書きで、勝手に製本されたものだという、ウォールストリートジャーナルへの彼女(のものとされる)メール。


こんな話、聞いたことがない。

私自身、学位論文を提出して博士号を取得しましたが、これは文系理系問わず、信じがたい抗弁です。

まず、大学(事務方であれ指導教官であれ)が執筆者の許可なく論文を製本して世に出すことはあり得ませんし、況んや下書きをや。

もちろん、下書きが教官に渡ることは当然あります。
それは、「こんな構成でいきます」とか、「進捗具合はこんな感じです」と教官に伝え、指導を受けるため。

当然、教官がそんな下書きを製本しなければならない理由は無い。


しかもこのウォールストリートジャーナルの中では、彼女(とされる人物)は「rough draft」と書いてますから、これは下書きよりもさらに程度の低いスケッチレベルということになろうかと思います。

こうなると、ますますそれが製本される意味が分からない。


だって、仮に大学側がそんなものを製本して出したとしても、学界からは「よくもこんな程度のものに学位を出したな」と呆れられ、その大学の見識が疑われるのがオチ。

そんな「rough draft」を製本して学位を与えるメリットは、大学側には全くありません。


また、そもそもの話、大学が製本してくれるというのも、あまり聞かない話。

通常は執筆者、つまりは学位を取得しようとする者が、自費で製本して大学に提出します。

因みに、提出する冊数は大学や学部により異なるでしょうが、通常は大学用(審査を通り学位が授与されれば、その論文は公開されるので)、国立国会図書館収蔵用、学位授与の審査を行う教官の人数分、そして自分用(何せ一世一代の大仕事ですからね)といったところでしょうか。

私の場合は、審査を担当した教官が4人だったので、計7冊製本しました。

ご存じのように、学位論文は黒もしくは濃紺のしっかりとしたハードカバーの装丁で、タイトルとかは金文字とかで彩られるので、結構なお値段がします。

私の場合も5桁の値段でした。



下世話な話ですが、金に飽かせて下書きをわざわざ製本しようなどという酔狂な人は、いないと思います。

そうでなくても、大学院生のそれも博士課程の人間なんて、金が無いのに(苦笑)


また、彼女が誤って下書き(それも「rough draft」)を製本して学位論文として提出したという仮定も、まず考え難い。

だって、わが子のように慈しんで作成した学位論文の完成稿と下書きとを取り違えるなんて、到底あり得ないし、もしそんな取り違えをするようなら、そもそも学者としての知能が疑われます。

しかも、そんな下書きの製本を学位論文として受理し、その審査をパスさせたとなれば、今度は早稲田大学のレベルが疑われる。



と、まぁこんなわけで、この「下書き」という彼女の主張は、学位論文経験者としても相当無理を感じます。

逆にこれが本当なら、一体どうやってそんなことが起き得たのか、知りたいくらいです。



質問してきた友人よ、こんなところでいいかしら?(笑)




それにしても、最近この手の話で話題になる人は、なぜ苗字が珍しいのだろう?w






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