~日々是ジーザス~ -68ページ目

愛は込めません





我々は、あらゆる対象に対して(思惟されうる限り)何らかの価値判断を下す














これは閉鎖的かつ有限的な「個」という空間から、対象の属性を任意で選択する行為として解釈できる




















しかし、『任意で』ということは一体何を意味するのだろうか






















対象とは「個」(=主体)という概念とは正反対の性質を帯びている












つまり、対象とは個に対して、非常に開放的かつ無限なのである















なぜなら対象から抽出された属性は各主体(=個)によって捉え方が様々であるからである

(もちろんあくまでこれは観念論的解釈であって、物理的世界においての解釈に限らない)















捉え方、つまりアプローチが異なるのである


















だから善・美・真などといった形而上学的概念については絶対的な真理が発生せず、任意であるが故に相対主義的立場をとらざるを得ない












では、個は一体どのようにその対象に価値判断を下すのだろうか

































そう、『理解』というカタチでもって



















対象から与えられた情報(対象⇒主体)に対して、今度は逆のベクトル(主体⇒対象)が働くのである



















そこで理解された対象が次のステップとして善または悪の価値を下される


















しかし、この『理解』という概念が後に大きな問題を孕んでくる



















善と理解された対象が向かう次の段階の1つとして、『所有』という概念が挙げられる












所有とは、個が対象から取得した(理解した)情報に対して絶対的な感情を移入することを意味する












例えば、彼氏や彼女・自分の好きなアーティストなどは「自分だけの~」といったように、ある種の特質化を図ることがそれにあたる













つまり、他者が理解し得る情報との間に差異を見出し特質化を図ることによって、確立された・絶対的な対象を再構成してしまうのである

















ただしこれは言い換えるならば、対象に対して一定の偏見・バイアスが加わることを意味し、それは対象を対象そのものとして捉えることを困難なものにしていくだろう

















所有という点での主体と対象との関係はもちろん主体>対象であり、そこには一定の優劣の差が生じている














しかし善=肯定的な理解をし、対象に対して絶対化を図った主体にとっては無論全く逆の立場・否定的な理解は許容されえないだろう




















その意地がある種の崇拝的行為を招く


























「絶対化による呪縛」





















その対象(その対象から取得した観念的な情報そのもの)を否定できないという立場から、対象の存在を肥大化させすぎてしまい、結果的に対象が主体の自己同一性・アイデンティティを形成していく


















対象が主体を食べる

















ここでは主体と対象の立場が逆転し、主体<対象という関係が成立してしまうのだ




















また、善と理解された対象が向かう次の段階のもう1つとして、『同質化』が挙げられる





















これは理解という手段でもって対象になおも近づこうとし、主体が対象を食べること・主体とは異なる「他」を同化する作用を意味する



















そのためには上記の所有の例のように、対象は一度主体の内部で観念化されなければならない















つまり、 対象そのもの-対象の概念-主体 という第3項を媒介せざるを得ないのだ
















しかしこの対象の概念はどこに属しているのだろうか




















そう、先ほど述べたようにそれはあくまで主体の内部から発生したものなので、主体に属していることになる



















これは『暴力』以外の何ものでもないのではないだろうか

























なぜなら、勝手に任意で情報を取り出し勝手に理解し勝手にその対象の他の属性を排除することになるからである

























つまり、認識すればするほど主体の存在が肥大化して対象の開放性・無限性を奪ってしまうということにつながる
















それを防ぐためには当然媒介項を排除することが要求されるが、そもそも有限である主体が無限である対象を「真に」理解できるはずがない

















したがって理解関係というのは一切排除されてしまう









































いかなる共通要素も持たない






















































お互い何も知ることはない













































































































在るものは永遠の孤立のみである