仮構の復権 | ~日々是ジーザス~

仮構の復権

仮構・仮象・仮想etc.









いつも「仮」は皆に嫌われている









それはきっと「仮」概念が何らかの虚偽を孕んでいるからにちがいない








そう考えてみると、整形というのは倫理的な問題というよりも、むしろ形而上学的な問題なのかもしれない







皆本当のことを望んでいる








「仮」に対峙されるリアル・真・本物










ただし、そのリアル・真・本物にも若干のニュアンスの違いはある








仮構とリアルが対比される場合、そのリアルとはもっぱらこの現実を指示している






したがって、この場合の仮構とは文字通りフィクション(現実ではないもの)として提示される









一方、この仮構が真・本物と対比される場合、必ずしも真・本物といったものが現実だとは限らない







プラトニズムがまさにその典型だろう











イデアの世界はこの現実には存在しない理想郷のようなもので







今度はこの現実が仮構としての烙印を押される













イデア










範型としてのイデア












とどのつまりモデル













「モデル」という言葉が嫌いだ











「モデル」という言葉を発した瞬間、自ずと対概念を想起せざるを得ないからだ








それは











男といったら女が出てくるし













パンツといったらブラジャーだし


















俺と言ったらお前が出てくるように






























では「モデル」の対概念は何か














コピー










モデル vs コピー










我々現実世界=リアル側がコピー








つまり、「モデル」という言葉を発した瞬間、その瞬間に「モデル」ではない我々がコピーになり下がってしまい、ヒエラルキーが発生してしまう












ところで、「ファッション」としてのモデルはどうか











ファッションとしてのモデルは、人間としての範型・人間としてのイデアになり得るのだろうか























なり得ない









あんな金太郎飴みたいな量産型の人間が「モデル」になれるわけがない









もちろん、それは我々コピー側の人間が「モデル」になれることを指し示しているわけでもない









個が類を超越できるわけがない










いたとしても、それは三位一体でいうところの人間としての神であろう









神こそ THE人間 である










では、彼ら/彼女らにどういった形容を与えればよいのか









それは「モデル」ではなく、「シュミラークル」という言葉が適切であろう








「シュミラークル」とは、オリジナル(モデル)なきコピー








範型なき量産













しかしながら、個人的には、ファッションモデルが人間としての範型・人間としてのイデア足りうる可能性を感じてもいる











というか、なっている










小学校4年生の時だったであろうか














俺はすぐる君ちに遊びに行っては、パリコレのファッションショーばかりみていた













なぜか













おっぱいが見れるからだ













パリ・コレクションというファッションおっぱいは、おっぱいを「芸術」足らしめてくれていたからだ















たとえすぐる君のお母さんにみられても、こちらとしては芸術に勤しんでいるわけだから、咎められる理由が見当たらない

























合法的おっぱい!

































モデル最高!!!















































ガリガリ貧乳うぇるかむばっく