今朝は、西風が冷たい..。 えり子の帽子をかぶって、表の、草抜きをする。だが、この帽子あったかすぎて、脱いでしまった。すると、とたんに、西風に見舞われて、今日は寒いねえ。となる.   と、おとなりの奥さんの、頭には、いつもの手拭い頭巾である。 見せてもらったが。自分で作れそうだ。     お昼ご飯を済ませて、ちょっとお昼寝ををして さて、あの頭巾をこさえよう、と、頭の中で、色々と考えてみる。  日本手拭いなら、色々ある。 だが、後ろのさんかくは無駄だなあ。 それよりも、大きな風呂敷を、利用したほうが、 何もしなくていいのではないか。

とにかく、そうゆうことです。 あれやこれやで、このおおちゃくな、ばあさん、またまた 「ゲーム」をはじめるのである。、

  どうもうまく書けない、「こんちくしょう。」と言いたくなる。なんかいかきなおすねん。 挙句の果てに此の機械壊れてるで。と、呟く。  まだ慣れていないから、しゃ-ないなあ と、自分を慰めているが、全くの話、書こうという意欲がだんだんに減ってくる。

 さて、今日は,何の話にしようかな。   あの頃、日本中では、「肺病]という病気にかかる人がたくさん居ました。 

身近にいる同級生も、何人かいましたが、なかには、帰らぬ人もあり、特に仲の良い方がなくなるということは、すごくショックだった。そして、つきつぎと、現場から、離れていく友達の面影を、胸に刻みながら、「死なないで。」と、こころのなかでつぶやいたものだった。

 

さて、昨日は何を書いたのか、急に、電源を切ったので、思い出せない。ずっといぜんは、こんなにもたつくこともなかったのに,。年のせいだけでは無いようだ。 まあそのうち、すらすらと、書き進められるよう、頑張りましょう。

 今日は、「老人会の、集いの日である..久しく行ってないので行くことにした。が、なんとまあ、あまりにも歩かないことのせいか,ひいひい、であった。   かって親しくしていた方の中には、もう、鬼籍に入られていて、何ともまあ寂しい限りであった。  とわ言え、このように、ブログを書くのがなんとまあ面倒な事。でも、91歳の頭をフルに回転させ、頑張ろうとおもいます。では今回は,この辺で。

 

 

 

よ                                  

 その日は、同じ老人会の会員さんが亡くなられ、そのお通夜に行った帰りの事である。 

あたりは、まだまだ明るくて、田舎の事だから、ぐるりは田んぼと畑。

私は、のんびりとバイクに乗って、見通しの良い交差点に差し掛かり、一旦停止をして、さて渡ろうとした時、 急に左側から、真っ黒なものが、ぶつかってきた。

思わず目をつむり、急停車する。

そっと目を開けると何もない。

もとの黄昏の田舎道である。  

 

帰宅して息子に話すと「ああ~あそこねぇ・・・でるよ。」

平気な顔。

「いつから?」 

「ずうっ~と前から。」

 

息子も同じような体験をして、あわや事故を起こしそうになっていたのだ。

 

それを聞いて思い当たることが一つ。

 

その交差点の角の北西に車庫がある。

ブロックの頑丈で大きな車庫なのに、ある時無残に壊れていた。 

西から来た車がぶつかったとか。

でも、西からの道は、ゆるい坂道で車幅も狭く加速するにも距離はホンのわずかで、あんなに壊れるようなことはないと思うのだった。 

 

まさかとは思いましたが、とにかく、そこの奥さんに話して塩をまいていただいた。

 

笑うなかれ、それで一件落着であった。 

それからは、変な現象はなくなったのだ。

 

 

今の町に移り住んで、主人を亡くし、ついに「老人会」に入ることになった。 

みんなとも仲良くなり、色々な行事にも参加しながら、愉快な日々を過ごしていた。 

 

 その日は 「地蔵盆」 

 

この町にもお地蔵さんを祀ってある社がある。

そのお地蔵さんに老人会で毎年 「御詠歌」をあげることになっている。

我々役員の中で、「御詠歌」をあげる「宗派」は私のみだと言われて、皆から頼まれてしまった。

長年、この町に住んでる人が沢山居るのにと思いながらも

「どの節か?」と前年の役員の方に尋ねると「お遍路」さんの節だとか・・・

 

「まあ何とかやりましょう。」

 

断り切れず、どうにか地蔵盆を済ませることができました。  

 

さて、それからである。 

 

翌日は 市の福祉施設の「すこやかセンター」に行く事になってました。    

 

私たち役員は、私を含む半分が、後片づけに残ることになった。 

いつも、持ちなれたテーブルなのに、ものすごく重いのだ。

「どうしたの?」 

と、四苦八苦してる私に、仲間が聞くが、疲れてもいないのに、どうしてかわからないでいた。 

 

帰宅して、その日は何事もなく済みました。 

 

だがそれからである。

その日を境に、一日、一日と、日がたつにつれ、体がだる重くなってくるのである。

食欲もなくなってきて、遂には起き上がるのがやっとになりました。

当時、私は一人暮らしで誰もそばにいませんでした。

いよいよ、ダメかと思い子供たちに連絡しようかな」と起き上がりました。

目を閉じて、うなだれていましたが虚ろに目を開けると目の前に、お地蔵さんがずらり並んでおられるのだ。

 

「何これ?」

  

しばらくその目の前の お地蔵さんを見つめてました。

 

見覚えのあるお地蔵さんでした。

 

私が老人会で御詠歌をあげた町のお地蔵さんでした。

あの時、私は

「なんで、私がこんな事を!!!」

と言う思いで嫌々御詠歌をあげていました。

 

「もしかして私のあの、御詠歌が悪かったのかな?」

 

と思い、心から

「どうも、すみませんでした。」

と、謝りました。

すると、どうしたことでしょう。

 

さっきまで、起き上がるのもやっとだったのに・・・

しかも、何日も食べていないのに・・・

 

しゃんとして、まるで、今にも切れそうなバッテリーがフル充電されたものと交換された様な感じでした。

 

俗にいう怪奇現象とかを、これまでは、私は信じていませんでした。 

 

実際、こんな不思議な体験をして「世の中には説明のつかない事」が存在するものだと信じるようになりました。

 

あの「お地蔵さん」の事は、今も謎のままである。

 

 

 

 かなり.このような日々が続き、とある日の事である。 

我々、学徒全員は教室のような部屋に連れていかれました。 

「何事か?」

と、思いながら、ぼんやり座って居ると、京都大学の先生だという方の「講演」が始まりました。

私は身体が大きいほうなので、後ろの方の席におりましたので、その先生の声が聞こえない。 

またその先生も、声が小さく、弱々しい声で話されるから、よけいに聞きにくい。

 

「まあどうせ、学徒の皆さんしっかり頑張ってください。」

 

ぐらいな事だろうと、諦めていたところ、前の席の方が、急にざわめきだしたのである。 

私も「ぼんやり」をやめて、注目すると少し前の席の友達が

「ちょっとあの人ね、えらい事言いだしたよ。」

「なに?」  

「あのね、この戦争は、軍部の独走で、こんな戦争はするべきでないって!」

 

この時代、こんな発言は「非国民」とか何とか言って大変なことでした。  

 

しばらくすると、私のいる後ろの方のドアから、 ドカドカと歩くたびにガチャガチャと足についた馬具の高い金属音を鳴らし、サーベルのぶつかる音が響いてきた。

それと同時に「憲兵隊」が入って来て、荒々しく先生を連行して行った。

そして講演会は取りやめになった。 

 

さーて、それから我々には、何故か、この反省文を書かされたのである。

先生のあの話で 、そして、あの結果。

 

「複雑な気持ち」になったのだった。 

 

これを「洗脳」というのかもしれない。

 

この事件の後、色々と世相的な取り調べもあったが、私たちには大した事はなかった。

 

あの先生の事は、今になっても気がかりな事の一つです。

 

 

 あのケガの後、 医者の先生曰く

「君はこれを見て、何ともないのか。」と 

で、私は、

「本人に傷の具合を教えてあげないといけませんから。」

とかなんとか言ったような。 

すると先生は、

「君のようなのが前線に行ってくれるといいんだがなー。」

 

 そうなると、さしずめ私は白木の箱に「何とかの霊」と書いたのが送られてくるんだろうな・・・

私の長兄のように。                                  

 

だが、 はんなりとするうれしい事もあった。 

その一つには、三月三日のひな祭りの日だったと思う。 

その日は、お昼になって食堂へ行くと「大きなおはぎ」が食器の中に入っていた。 

それを見てお雛祭りを思い出したはのだが、あの時 皆は、どんな気持ちだったのだろうか。

 私の部署は、「第一部品工場」 溶接部もあり、大体が鉄製品の加工が主な仕事である。

まず、図面と、鉄板が支給される。

それによって、数が多い時は、「打ち抜き」という冶具をこしらえて納品する。

ごく数の少ない時は、鉄板に、ケガキをして、はさみで切っていくのだが、慣れるまでは、ちょっと大変です。

まず、はさみの片方を万力に取り付け、上側の柄にパイプを足して、ケガキどうりに切っ ていくのである。

慣れれば簡単で、冶具を作る面倒さから、大概の部品ははさみで仕上げていた。                                                        

  

ところが、いつも順調にいくとは限らない。

いつものように、切っていた友達が、「きゃー!!」

私の目の前で、左手を切ってしまった。 

とっさに、彼女の手を、そうだけど、その辺にあった手拭いで押さえ、医務室に走っていった。 

そこで、医師に状況を話すと、先生はまず、手拭いを取り除けて、傷を見た。

その時あまり血は出ていないので、「よかった。」と、思っていたところ。

先生は、ピンセットでその傷の先をつまみあげた。 

すると、一度に真っ赤な血が噴き出した。

思わず私は「先生、なにすんのー!!」と叫んだ。 

すると

「どの程度の傷か診たかったからで、縫えばいいのだが、傷が残るかもしれんから、このまま抑えとこうか。」  

 

彼女は気を失う寸前でしたが、すぐに元気を取り戻しました。

 

 

 

 それぞれの現場に配属される前には、それ相応の「基礎訓練」をさせられました。

例えば、やすりのかけ方、ハンマーの使い方など。

そのなかで、一番難しいと思ったのはハンマーである。 

飛行機の機体は、ジュラルミンで、それらを重ねて、かしめるためには、外壁は皿の様に

内壁は太鼓の様にハンマーを打たなければならない。

だが、これはなかなか大変な事でした。 

ともすれば、崩れた皿の様になってしまい、未だに当時の事を今も懐かしく思い出します。   

 

ところがであります。

そのおかげで、いまでもグラインダーでナイフや、草刈ガマ、難しいところでは、ボール盤で使うキリを研ぐ事もできるんです。 

こんな「婆さんは少ない」ですよね。」← 自慢

 私達、女学生は、色々な工場へ、学徒動員として派遣されていた。

我が、兵庫県立姫路高等女学校は、学校から少し東にある「川西航空姫路製作所」に動員されていた。 

作業は、大して辛いとゆうようなもので話なく、むしろ、新しい出会いや、珍しい事の連続で、元気よく過ごしていた。 

クラスごとに、色々な所に、所属するのであるが、この私はというと、「第一部品」で、主に、鉄の部品を加工するところでした。  

他の部所はというと、ジュラルミンやアルミニュウムの組み立て等しておりました。

元「日本毛織の紡績工場」」で作業しており、そういったことが、飛行機の制作所としては、敵にばれず、かなり後まで空襲を免れていたようだ。                     

 

さて、この間にあって、私が特筆して伝えたい事といえば・・・ 

 

これからは、また、改めて書くことにいたします。

 

休み。