キエさんは、あの親やからこんな子できてんなーてのがよく分かるって言ってました。
彼女は合計一ヶ月ぐらいうちの家に泊まってるのでうちの親のことよく知ってるのです。
まあうちの家は放任主義です。けど結構プレステをなかなか買ってくれなかったり、何でもすぐ買ってくれるってわけじゃあなかったです。
なので、自由ではあったけど、欲しいものが手に入ることはそこまでなかったわけです。
我慢しなければいけなかったわけですよね。
なので暇だったので、本を読んだりすることも多かったです。
うちの家は凄く個人主義で、好き放題やってそれぞれが生活していて、お互いに干渉し合うことも、お互いが自分のあったことを話すこともないんですよね。
みんな一人暮らししてるみたいな感じです。
現在、教育現場では、ゆとり教育が流行っています。
従来の詰め込み型の教育が否定されて、子供達に主体性を求める教育へと見直されています。
実際、主体的に生きるってことを心がけて、やってる人ってどれぐらいいるのでしょうか。
ここで問題になってくるのが、ゆとりを与えること、自由な時間を手に入れることが、主体的に生きることに繋がるのだろうかという疑問です。
完全な自由な状態に放り出されたからって、その中で、何か物事を考えて行動するかといったらそれは分からないわけです。
といっても先日のお花見でも、わっちゅさんもお子さんはずっと一人で遊んでいて、子供は遊びの天才なんだなと実感しましたが。
暇があっても苦にならないほど、つまらないことでも楽しめるんだなと思いました。
で、どういうときに主体性が発揮されるかというと
社会の中にいるからこそ、それを受け入れるか、抵抗するかという判断する動きを取るということで、
社会には秩序や規則や慣習や人間関係が存在していて、関わっていくためには、自分で判断していかなければならないわけです。
僕の行っていた六甲という学校は規則が結構、厳しかったです。
髪の毛は耳にかかったら駄目とか買い食いしたら駄目とか。
僕はもちろん抵抗、反抗しまくっていたわけです。
そう考えると主体的に、社会に対して自発的反応をしていたのかなと思います。
ある程度、不自由な状態でしか、自由を得れないのではないかとさえ最近思います。
つまり、自由は漠然として感じる自然状態ではなく、社会という不自由な状態から獲得するものではないかと思うわけです。
自分で自分の行動を選択していく自由を勝ち得ていくことが何より重要だと思うのです。
学校は、これを勉強をしていれば、勉強ができれば良いという風潮が激しいから、勉強するのだろうけど、いざ大学生になってみたら、勉強がさほど強いられなくなってほんまに自由になるわけです。
実際、こうしてればいいという指標があったほうがそれに対して反応できるから楽でもあるなとは思うんですが。
大学は、自分で自分自身や自分の行動に対しての価値観を持たないといけない状況になる気がするんですよね。
考える時間などの暇な時間もめっちゃあるし。
他人にこうしろと言われることもなくなるわけですし。
けど社会人になったらもっと自己責任が増えて、自分で生活していかないとあかんくなるし、もっとたいへんです。まあ働いて、そんで生活していくだけでもあるんでしょうけど。
全く話しまとまらずでした。