史跡めぐりの記事です。今回は、愛知県幸田町深溝にある深溝城です。6万5,000石で肥前国島原藩となりました深溝松平氏の発祥の地です。あとセットで紫陽花寺として名高い本光寺も併せて紹介いたします。

 

深溝城(ふこうずじょう)

当初の城主は大場氏(大庭氏)で、大庭氏は鎌倉幕府の御家人大庭氏の流れを汲むと言われています。大永3年(1523)、安祥城の松平長親の命を受けた五井松平元心と弟の忠定が深溝を攻めて、大場二郎左衛門を討ちとりました。その功により、松平忠定が深溝城主となり、深溝松平氏が誕生しました。その後、松平〜徳川家康にも代々仕えて、各地で転戦しました。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、五代目、松平忠利の時に、深溝藩1万石で立藩しましたが、慶長17年(1612)忠利は三河吉田藩に3万石で加増移封されて深溝藩は廃藩となり、それ以降は、旗本板倉氏8000石の深溝陣屋となりました。

 

本光寺(島原藩主深溝松平家墓所)ほんこうじ

深溝松平家の菩提寺として創建された寺院です。四代、家忠まで深溝を領地としていましたが、家康に従って関東に移封しその後、五代忠利が深溝西郡藩主として深溝を領地とするが、後に三河吉田藩主として移封され、六代、忠房の時代に三河刈谷藩主・丹後福知山藩主を歴任した後、肥前島原藩主(長崎県島原市)となり幕末を迎えます。 江戸時代の大名は、死後墓所を江戸及び領地に造ることが一般的であるが、深溝松平家は、幸田町深溝に所在する瑞雲山本光寺を歴代当主の遺体を納める菩提寺とし、五代忠利から十九代忠諒までの当主を、死没地に関わりなく、深溝の地まで運び埋葬するという特殊な方法を継承しており、島原藩主深溝松平家墓所は、国史跡指定に指定されております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(1)城跡となっていた三協幸田工場の敷地にある案内、(2)城址碑、(3)本光寺山門とあじさい道、(4)本光寺山門、(5)本堂、(6)西御廟所、(7)東御廟所、(8)東御廟所

 

城跡は、三協幸田工場の敷地の一部となっており遺構は、残っておりませんが、正門脇の道路沿いに石碑と案内板があります。本光寺は、初めて紫陽花まつり以外の時期に訪れましたが、落ち着いた雰囲気でよかったです。また御朱印もあじさいのはんこが押されて素敵でした。菩提寺と本領地がかなり離れているので、墓参りが大変ですね。本光寺の紫陽花の記事は、こちら