いい子、いい人でいること。


これは、道徳的な観念があって
自分を律して人を思いやる事ができる
という能力があってこそ。

なので、それは一つの発達段階なのだと思う。




人を利用するとか
大事にしていない
と思った他者を見て
自分はそうなるまい、と思っての事かもしれない。


↑そんな人が身近にいたので
長年観察、研究して思ったこと。





いい子、いい人をやる

というチャレンジをしてやり切ってみると(できてしまうと)
自分が苦しくなるようです。




いい子、いい人になるべきと思っていてなり切れない(←私の場合)
と自覚的な自己否定になるんですが(笑)

なり切れてしまうと自覚的には
「自分は悪くない」
と思い、
潜在的には自己否定があるようです。




花火




自分を「天使」だと思ってるというか
「天使」であるべきと思っていて
「天使」に同一化している。



そんな、
「いい子の天使の自分」
しか認められないと
周りに理不尽なこと言われたりされても耐えて尽くしたり
それが無理になると一転して攻撃したり…

周りの、特に身近な人にも天使であることを求めるので
天使から外れる言動を許せなくなって
否定したり強要したり…





でも一番は自分が苦しいんだなー
というのが観察結果です(笑)



天使でない自分を潜在的に否定しているから。

あるべき自分から外れる事を許せないから。



人を否定したり攻撃するということは
自分の中にある同じものを否定したり攻撃しているということだから。




花火




そんな風に身近な人で見せてもらって
私も苦しかったからこそ研究して仕組みがわかったのだけど…
やり切ってくれたからこそ私はその先に行けるんだなーと思う。




その先とは、

『善悪正誤の価値判断を超えて
自分自身の状態、人の状態を、適切にジャッジできること。』





天使であらねばならぬ世界観は
善悪や正誤の世界。

善きこと、正しきことが絶対。




それだけでは苦しいことがわかると
その価値判断自体を見ることに導かれる。





私が縛られていた「正しさ」の檻、

その檻の中から世界を見ることから

檻から出て檻も含めて世界を見る視点へ。





善きこと、正しきことは
一面、真理なので
従うか反発するかという囚われた反応をしがちで、
それ自体を客観視するのはなかなか難しい。


この客観視のハードルを超える原動力をもらったのだなと思う。





苦しいことだったからネガティブに思ってきたけど
見方を変えれば
私にとって成長を促す素晴らしい原動力だったのだな。





花火





ジャッジは良くないものでやめた方がいい
という事もよく言われるし私も言ってたけど

ジャッジの力自体は人間にとって大切なものだと思う。




ジャッジを全くしなければ
日常生活が送れないはず。


本能的なジャッジだけしてたら動物と同じ。



人間が他の動物と違う能力を持っている
その能力はジャッジの力なんじゃないかと思う。




花火




一般的に言われている「ジャッジ」は
「否定する」要素が強い。



否定して、存在を抹消しようとするようなエネルギー。




そのエネルギーが苦しいだけであって
ジャッジそのものが悪いのではない。





だから、正確に表現するなら
ジャッジをやめる、ではなくて
ジャッジして否定・抹消しようとするのをやめる
という感じかな。





花火




愛するためにジャッジする。

大切にするためにジャッジする。

自分を生きるためにジャッジする。





善悪正誤の価値判断を超えて
自分自身の状態、人の状態を、適切にジャッジする。




何が起きていて
どう感じていて
本当はどうしたいのか?

を感じ取って判断する。




それを踏まえるからこそ、

「本当に自分と人と世界を大切にするにはどうしたらいいか?」

が見えてくるのだと思う。