(カゼひいた~、パソコン開くのも大変だ~・・・)
 
さて例によって、
「映画の『神様感覚』‥‥大林宣彦・宮崎駿作品と『ALWAYS 三丁目の夕日』を比べて」
で書いた、その流れの話なんですけど。
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http://ameblo.jp/heav/entry-10045819353.html
 
これまで、
「神様の視点ならば、どんなに喜びばかりの映画でも、本当は地上には悲しい事あることを全て分ってる、そんな『哀しさ』の感覚になるはず。だけど、神様自身は悲しくはないんだ」
とか、
「よい神様なら、たとえ映画の神様であっても、見られるより、観客を見つめてくれる視線になる。でも良くない神様なら、観客に見られ、内面見透かされる形になってしまう」
‥‥とかいったことを、まあ書いてきたんですけど。
 
良い例として出したのが、原田知世版の「時をかける少女」とか、「ルパン三世カリオストロの城」でしたね。
 
これを、ちょっと別表現にしてみようかなと。
 
  ×  ×  ×  ×  ×  ×
 
「大きな神様ほど、包容力もあり、全てのことを見渡して分かってくれる」と、想定してみよう。
そして、映画の「神様感覚」においても、その感じが出せる映画が、深い感動があるのだと。
神様の「顔」が見えるか、どうか。見えるとしたら、どのように見えるのか。
 
神様の顔が小さすぎて、見るお客さんの視野に全て収まってしまう。これが、悪い例。
神様が、観客に観察されている状態。その内面を心理分析までされてしまい、言わば見透かされてしまっている状態。神様の周囲まで見えてしまって、どうしてそう考えるようになったのか、の事情まで見えてしまうことも。
良くない例として出したのが、スピルバーグの「フック」って映画でした。
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http://ameblo.jp/heav/entry-10050832400.html
 
あまりに主張もしくは感情が強すぎて、観る人が引いてしまう、そんな作品も、同様なところがある。
オリバー・ストーンとか、いい監督なんだろうけど、「7月4日に生まれて」とか観ると、政治を出しすぎて、うう~む、これでいいのか、と思ってしまう。
小説だと、昔読んだ大藪春彦とか、そうだな。
主張があっても、作者がそれに対し少しクールな面を持つと、そうはならないのだけど。
 
望ましいのは、神様の顔全体が、大きすぎて見えない場合。
例えば、顎の線だけ見えるとか(笑)。
神様がどんな表情をしているのか、すぐには見えない。でもおそらくは、どんなときでも落ち着いていて、取り乱すことはないのだろうことは分る。て言うか、そうでないと神様じゃないから。
これを、単純に「静かなタッチ」ととられると、困るけれども‥‥。
「何を思って、どう感じてるんだろう」と思えるくらい、すぐには見えない、それほどに。
そして、山場を過ぎたあたりで、「どんな顔と表情をしてるか」が、分ることは分る。でも、全体が見えないのは変わらない。
 
そうできるためには、「直接言わないことの良さ」というものがあるのが分る。
言った途端に、それは、観客の視野の中に納まってしまうことがあるから。
良い神様ならば、観客の目の前で、あからさまに感情をさらして、全て見透かされ観察されてしまう、そんなことはしない。
「無言の言」
‥‥‥‥。
 
  ×  ×  ×  ×  ×  ×
 
ちと、抽象的にすぎたかもね、今回。許されよ。
 
晃彩 晶 Kousai Akira 2007.10.27