ペースト状の味噌は水に溶けやすかったため
それが味噌汁になりました!
これが味噌汁の登場です!!!
この味噌汁の登場によって
「一汁一菜」という鎌倉武士、そして現代まで通じる
食事の基本が確立されたと言われています!!!
鎌倉時代は質素な生活をモットーとした武家社会だったため
味噌汁の登場によって確立された「一汁一菜」の食習慣は
粗食に見えても、栄養バランスの優れた味噌のおかげで健康的な食生活となり
庶民にも少しずづ浸透していきました。
味噌汁は食生活の基本になり、庶民にも少しづつ浸透していきました。
鎌倉幕府がつぶれて、戦乱の世になると、味噌はますます貴重に、基本の食材になってきました。
味噌はいつ戦いに行くかもしれない武士にとっては、携帯に便利な栄養食でした。
この頃、朝鮮半島の高麗から、大豆を丸めて糀発酵させる味噌玉が伝わりました。
今の味噌作りと同じですね!
味噌はさらに美味しくなり、どこの家でも味噌を造るようになりました。
こうして手前味噌の時代が到来です。
造る人や、その家に住む自然の菌、気候によって味が変わるから、
全国各地で、地方、村で、家庭で、それぞれの味噌が造られていきます。
味噌はそこでしか味わえない、家庭の、ふる里の味になっていくのです。
◆戦国時代ー味噌が戦陣食◆
食事が戦闘能力に大きく関わる時代。兵士は塩・味噌玉・食料を携帯していたそうです。
石田三成は「熱湯に焼き味噌をかき立てて飲めば、終日米がなくとも飢えたることなし」と
語ったとの言い伝えがあります。
現在、各地に残る味噌には、戦国武将の考案によるものとされるものがあります。
上杉謙信の「越後味噌」、伊達政宗の「仙台味噌」、武田信玄の「信州味噌」、
豊臣秀吉、徳川家康の「豆味噌」というように
味噌作りを奨励していたようです。
徳川家康が天下統一を果たした江戸時代。
江戸の人口が50万人に達し、味噌の需要に対する
生産量が追いつかなくなってきました。
そこで、三河や仙台からどんどん味噌が江戸に送られ
味噌も家庭での手造りだけでなく、お店で買うことも多くなってきました。
1645年には、伊達藩が「御塩噌蔵」を設け、仙台味噌を大量に売り出します。
これは味噌の生産量だけではなく
そもそも江戸にいる伊達藩の藩士たちが、仙台味噌を食べれずに
欲求不満になってしまったのが、「御塩噌蔵」を設けるきっかけとも言われています。
こうした味噌蔵の数はさらに増え、江戸時代の末期には、およそ6000にもなったそうです。
1867年、大政奉還、王政復古の大号令、徳川幕府の終焉、文明開化…
日本に異国の風が一気に吹き込んできましたが
なによりインパクトがあったのは肉食の習慣!
それまでの日本人は、肉はたまに鶏肉がせいぜいで、あとは、
ウサギ、イノシシ、鹿などを食べるくらい。
それが文明開化の象徴として、東京で流行したのが牛鍋でした。
ちょんまげを落としたざんぎり頭で、牛鍋をつつのくのが
最先端のお洒落だったそうです。
とはいえ、西洋文化といえど、この牛鍋、ちゃっかり味噌仕立てだったそう。
それまでおなじみの、牡丹(イノシシ)鍋、紅葉(鹿)鍋、桜(午)鍋は、
どれも味噌仕立てでした。味噌は、獣肉の臭みをとり、柔らかくするのです。
それで、牛肉も味噌で臭みを消せば、日本人の口に合うだろうと、味噌仕立てになったようです。
こうして味噌は異国の味にも合う食材として、さらに広まっていきます。
第二次世界大戦後、東京では味噌蔵が戦火で少なくなり、味噌が不足していました。
そこで、信州から味噌が大量に出荷され、
米糀がたっぷり入った薄い、山吹色の信州味噌が東京でお馴染みになります。
時代にともない、味噌の容器は樽から冷蔵庫へ収納しやすい
カップへと変化してゆきます。
また、出汁を取る手間を省いても美味しい味噌汁を作ることができる
出汁入り味噌やインスタント味噌汁なども登場しました。
食品化学が発達し、味噌も工場で素早く作れるようになってきました。
でも、今、自然食品や無添加が見直されるようになってきて
“安全で美味しい”ことを求めて、「手前味噌」や味噌汁が
「腸活に最適!」「病気を防ぐ!」と注目されています。
縄文時代にまで遡る味噌、やっぱり日本人のDNAに
染み付いている「ソウルフード」ですね!
いやあ、奥が深い!!!
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