誰の目に留まるか分からないので、敬語を心掛けようと思いますmm

 

---

いじめられていると辛いよね

社会人として必要とされてないんじゃないかとか思うと辛いよね

自分の人生って何?って改まると空しくなるよね

 

それでも(色々あって)社会人になってから親友を見つけ、恋人と色恋を楽しみ、結婚願望はないのでそれはごめん何の指標にもならん、自分の幸せを追求しつつ、本当に幸せにしたい母親に仕送りしつつ、自分もそれなり幸せになれる程度には衣食住確保できてる人間がここにおるで!

 

って知ってもらいたい。金額?「個人事業主でIT関係」とだけ言っとく。

 

---

人生ウン十数年(30後半やで)生きて来て『みんなすごいよなぁ』と思います。

 

生きること自体、山あり谷ありな時世の中、自己表現をしながら生きていることに尊敬。

自分のやりたいことが、それまでの人生で明確に認識できていることが羨ましいと共に尊敬します。

 

この前、お付き合いしていた人と『別々の道で幸せになりましょうね』とお別れしたのですが、彼の核にも一貫して「人生で切り離せないこと」が明確にありました。

※そんな彼とは飲み友達の関係にシフトしました

 

私には『これがやりたい』『これは自分から切り離せない』『これ=自分』というのが無いので、それを自覚している人や、矜持を持っている人を素直に尊敬&羨ましいと思っています。

 

とは言いつつも、それがない自分も『別にこれでもいいじゃん』くらいは思っています。

無理に見つけに行こうとも、探そうとも思いません。

「それは年で体力がないが故に?」(体力は本当に大事なんやで)とか言われたら、否定せずとも全面肯定もしません。

そこに関しては無理強いしてまで、自分に目的や目標を持たせようとは思っていません。

この解答に尽きます。

 

---

 

振り返ると色々あった人生でした。

 

生まれてから2/3は不器用(コミュニケーション学んでなかった)で他人との意思疎通に四苦八苦。

何なら2/5くらいはいじめられており。

1/3は他人も自分も私を否定する人生でした。

 

ー上記に対してー

 

1/3の今(それなりに社会でやってけてる)に至るまで、親以外の、私の人生に関わった人たちが人生の先生であり、それは今でも続いています。その方達が”今自分が生きている時間でどういう立ち居振る舞いができたら波風断たせず、自分が気持ちよく生きれるか”を教えてくれました(もちろんみんな他人なので裏の打ち合わせなどない)。

 

3/5で出会った人たちには愛情を思う存分注いでもらった。

 

2/3で、今までの否定を「そういうことも人生ならあるよね」で転換できるだけの心持ちに持ち上げた(もちろん山あり谷ありやで)。

 

悪くない人生だと思います。

確かに自分の周りの人を見ると

 

『あぁ、これは自分にはない』『これだけの情熱や熱意を懸けられる目標があるのがどれだけ幸せなことなんだろう』『すごい』

と、思うことはあるけれど、だからと言って自分のお尻叩きをしようとは思わないわけです。

 

それは今まで私が生きてきた中で「”タイミング”やら、”機会”を人生という計画が用意してくれていると思い込む」ことにしたからです。

”人生”を主に設計しているプランナーの存在は実感しているわけでも、対面したわけでもないので、根拠を求められれば『なんとなくですね』になるわけですが、これまで生きてきた中で自分が体験&経験してきた中で蓄積した統計学的な『こういう時はこうなる』みたいなパターンあるわけです。

もうこれで私は『プランナーはいる』となったわけです。プランニングの時に自分はいたけど、ごめんなさい、それは忘れてる。忘れてるけど、プランは実施されているんでしょう、大目標に向かって。

 

---

 

これまで様々な職種と業態で社会人を楽しませてもらいましたし、楽しませてもらっています。現在進行形で。

「あぁ?」と思うようなこともありますが、現実、この日本で、この会社で、この立場で、こうした業務のこの状況でこのような(生真面目な)方とお仕事をしていれば『それ(指摘・要望)もごもっとやで』となるわけです。

 

私はアメリカのものすごい田舎に3年間ほど身を置いていた経験があります。

アメリカ人以外に、アジア、中東、欧州、州税が安価なので、色んな留学生がいらっしゃいました。

私も貧乏学生だったのでそこ(激安セール)につられた口です。

 

民族性の違いは肌から、言葉から、実体験から、相手の意気から感じられました。

確かに統計学的に整理すれば、民族的な特徴は出ると思います。

私は、それは大体の人が肯定可能な違いだとは思うんですよね。

 

ただし、どの国でも、どの時代でも、どの人種、種別であっても同じように勃発する問題や課題はあります。

 

男女問題、いじめ、経済的困窮、虐待、ハラスメント、ご近所の誰それがヤバいとかとか・・

 

『あぁ・・ね』

 

なわけです。

 

---

 

そう考えると、人生の課題って何か本質があると思いません?

 

『旦那や妻が浮ついていて、誰かと不貞を働いている』『誰それが彼それを亡き者にした』とかなら、今の世論や司法なら簡単に

善悪をつけられるでしょう。

 

でも、こと『いじめ』や『トロッコ問題』などを例に出すと、守りに入る傾向が多くなりがち。

特に日本だとそれが顕著なように思います。(偏見か?)

 

意見があったとして、輪を乱しかねないから「わざわざ口には出さない」のは良いのです。私は理解できます。

それはその人の「思い遣りなんだろう」と私は解釈します。

これは相当に難しい問題や課題なので、それぞれに落とし込み、考える時間が必要だと思います。

その検討の工程を省いて、即興で「君の意見はどうだい」などの無理強いをしてまで彼ら彼女らに苦しい思いなどさせる義務も権利もないんじゃないかと思います。

この状況で意見求められた方もかなり焦るので、一般的に受け取りやすいコメントに終始すると思います。

※彼ら彼女にだって生活があるわけで、突拍子もないことを口にして、それまでの衣食住と人間関係にバイバイなんてあまりないんじゃないかな。

 

ただ、『いじめ』を問題として出した時に忖度を抜きにして、そこの「あるべき」と「現実」との乖離に違和感を感じます。

 

『必要悪』

 

と認識されていることが多くありませんか。

 

まぁまぁまぁ、もしも私がそこに準ずる権力者なら、そう片付けたい所です。

立場(担任含め学校担当者や教育委員会等)は理解します。お疲れ様でございます。

確かに成長する上で必要だったかもね、私はね。今幸せに生きている私がその時を振り返ればね。

 

それでも、私は『それは違うでしょ』と言いたいわけです。

『いじめ=必要悪』とは到底思えません。

 

自分自身や、自分の大事な存在がその対象になった場合、そんな悠長なことは言っていられません。

重大であれば重大であるほど、事実確認をしたいし、とにかく何が原因で、何が課題で、何が解決されずにここまで大きく発展してしまったのかを知りたいのだと思います。

私はその反応でいいのだし、正解だと思っています。

 

想像してみてください。

 

自分や、自分の父母、兄弟、祖父、従姉妹、友人、知人、推し

本当に入れ込んでいる人に当てはめてみてください。

その人が傷つけられていて、しかも「理不尽」というオプション付きならどうでしょう。

 

焦燥や、やりきれない気持ちが湧いてくるのでは。

 

人命が絡んでいる場合、本当の意味で取り返しはつきません。

絡んでいなくても、もう取り返しは尽きません。

 

対象が「傷ついた」時点で、対象がやらかした側を許そうが恨もうが、もうその時点で起因となった人物には、やらかしたことはやらかした側の課題として、やらかした側がやらかした事としてケツ拭いてもらうしかありません(読みにきぃ)。

その子を愛する恋人や家族が肩代わりすることもできません。

それはやらかされた側も同じことです。

どうやらそういう世の中らすぃ。

 

こうしたことを「業」という言葉で、昔から伝わる言葉で令和の私は知っています。

同じ理由で何故「因果応報」という言葉が現存するのか一考いただきたい。

流行り廃りの古今東西で、ずっと残り続けているということはそれなりの理由があるはずです。

 

---

 

支離滅裂になってしまった。

 

これから徒然なるままに、三日坊主になるかもだけど、まぁ誰も見ていないと思い(一応リスクヘッジで敬語は使っていく)自由に日記していこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

Amebaさん、書記の初期からROMでお世話になってるで。

本当にありがとう。

まさか自分が書き込む側でお世話になるとか思ってなかった。感謝。