勘違い形而上学的デザイン学。~Swipe File~
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デザインは感性だけではなく、
論理的なかたちで追う事が出来る。

みたいなことを以前書いたけど、
しっかりとネット上にログがあった。

https://twitter.com/Core_design_/statuses/3084796561457152

クリエイティブをおこなっていく上で、
論理は欠かすことが出来ない。

しかし、多くのクリエイターは感性のみで、
イメージを外在化している。

それはクリエイターと呼べる生き物なのか?
・・・まあ、ひとまず置いておこう。

彼らから外在化され完成されたものは
一見してみると良さそうなものに見える。

しかし、その論拠は?

どこにも存在しない。

ただ、なんとなくカッコいいでしょ、
トレンドに沿っているから。

そんな漠然としたものを論拠だと
勘違いをして仕事をしている気になっている
人間がいかに多いことか。

流行の音楽、流行のファッション、
最新の情報は押さえている。

そんなところに創造性の根源は存在しない。

創造性は論理的なプロセスを重層化した先の
非論理的な飛躍のフェーズに達したところにある。

外在化されたものに論拠を提示することが
出来る人間はどれだけいるのだろう。

デザイナーはオペレーターへ矮小化していき、
2極の1つの極へ収斂していき、
一方の極は、もう存在することが出来ないのかもしれない。

そして、クリエイターなんて生き物は、
死滅していく運命にあるのかもしれない。

ども、お久しぶりです。


僕自身、地震の影響を受けましたが、

なんとか、いきております。


影響をうけたものの、現地と比較すれば微々たるものだし、

不安はあるものの、現地と相対化すれば、小さいと考えていい。


現地の人は、大きな不安に苛まされていると思います。


僕らが思っている以上に、その不安は深い。


それを、実際に現地で被災したわけではない我々には

絶対に理解出来ないし、理解できるなんて大それたことは、

とてもいえない。


出来ないけど、思いを馳せることはできる。


本当の意味で理解することは出来ないけど、

それに対して思いを馳せる、ということはとても重要だと思う。


考え、そして出来ることをしていく。


「今」だから出来ることを。


しかしながら、地震、原発、と日本のなかで大変なことがあり、

感じていると思いますが、いろいろな情報が錯綜していますね。


何が正しいのか分からない、なんて人も多いかもしれません。


嘘を言っているようにも感じるし、真実を言っているようにも感じる。


何かを隠しているようにも感じる。


どれも、可能性があるような気がしてしまう。


地震、原発に以外にも、世界情勢、にも目を向けなければいけない

状態がいま、ここに迫ってきています。


国際経済、国際関係、どれも今後の日本に影響があるものと

考えなければいけない。


僕らの日常を大きく離れた場所でも、自分たちに大きく影響を

及ぼすことになるようなことが、起こる可能性がある。


どうやってそれらの「情報」を掴んでいくかが重要です。


情報、事実、真実、というものは別物として考えなければいけない。


情報を事実として捉えるのかどうか、事実として捉えたものを

真実としてまうのか、というのは、個人によるものです。


客観的な真実というものは、存在しない。


情報が事実かどうか認識するには、様々な情報から

確認できるように確認をとっていけばいい。


しかし、真実は事実の積み重ねからみえてくるものだから

事実如何によっては、真実は変わってしまう。


真実だと思ったものが、ある事実が入ってきたことで

別の真実がみえてしまう、なんてことは往々にある。


常に動いている。


そういう意味では


「事実」は静的なものあり、「真実」は動的なもの、


ということが出来る。


情報が事実と認識出来る情報量を持ち、

事実から真実を見抜ける認識力を持たなければならない。


つまり、ひとつの情報で、それが真実だと思ってしまうのは

大きな勘違いをもたらしている場合が多い、ということ。


そして、それをあたかも真実のように他者に向けて語るのは

「害悪」以外のなにのもでもない。


情報、事実、真実、それぞれに対する認識をしっかりと持ち

何が正しいのか、ということを深める努力をしなければならない。


例えば、有名な学者が言っていたから、それが正しい、

なんてのは知的怠慢ということ。


今回の地震、原発でよく分かったという人が多いと思うけど

立場によって見解が大きくことなる。


突き詰めて言葉の意味を考えると同じようなことを言っているけど

視点や言葉の表現によって、別物に感じることや、本当に違う

なんてこともある。


これらの情報がしっかり掴むことが出来ないと、

いつまでも、底が見えない「不安」が付きまとうことになる。


基本的に不安からくる恐怖は「知らない」ことからくるものがが多い。


知ることさえ出来ていれば、不安が取り除かれる。


しかし、それが真実であり、本当に真実なのかどうかは、

自分自身でどう解釈して判断をくだすかによる。


何か真実かを求めるには、情報、事実の積み重ねをして

誤差を少なくしていく努力をすることでしか、埋めることが出来ない。


いま世界に溢れえる情報と、どう向き合うか。


情報が溢れている今の状況をみていれば、理解できると思います。

正しく情報を咀嚼することが出来なければ、

情報の海で思考停止となり、溺死することになります。


その傾向は、今後においてより重要になってくる。


情報に向かう態度によって、見えてくる世界が変わってきます。


人によっては、クリアに見えてくるだろうし、さらに混沌としたものに

みえてくるかもしれない。


どちらにせよ、進まなければ現状維持で、何も変わらない。


自分を、そして周りの存在する、家族、仲間を守るためには

そういった努力は必須になってくると思う。


多くの人を救う力はなくても、せめて自分の近くにいる人だけでも

守り、不安から助けることが出来るだけの力は持っていたいものです。


ではでは、今回はこの辺で終わります。


ありがとうございました。


勘違い形而上学的デザイン学。~Swipe File~


例えば、何か具現化をしたいと思ったものがあったとする。


具体化したいものを、完成に向かわせるには、始点によって、

結果にむかう流れの方向性が大きく変わってくる。


この視点は、プロセスも同じだといえる。


どういう流れを踏まえるかにより、何を選択して、何を決断するか。


常に我々は無数に存在するあらゆる可能性から、

自ら何かを選択し、決断をしている。


自分が意識する、しないに関わらず。


どんな些細なことでも。


すべては、それぞれ自分のなかで再構築された

思考内容によって決断されることになる。


それが正しいかどうかは、誰にも分からない。


今回書くことは、あらゆる可能性が無数に存在するなかでも、

そもそもの前提として始点が異なる、ということは、

向かう方向性を大きく変えるのではないか、ということです。


それは、表象に想起されるもの。


または、「物自体」。


どちらで認識のスタート(始点)をつくるかのよって、

向かうベクトルが変わってしまう。


スタートが違えば、結果が違う方向へ向かう可能性は高い。


前提条件が違うといってもいい。


可能性が高い、という言葉をいれたのは、

プロセスを踏む中で、ベクトルが変化し、

一見同じような結果になる可能性が含まれているから。


人の思考は、思いもよらないことがきっかけで飛躍する。


しかし、スタートが違うということは、一見同じようにみえても

根本にある、思想が異なるということであり、

見えない思考の厚みが違ってくるということも大いにありえる。


とはいえ、多くの場合は、違ったものになる。


そして、着地する場所へ向かうプロセスが異なる可能性が高い。


一方は、表象を通してイメージされた漠然としたものから

具体化するためにパーツを当てはめていく、というプロセス。


そして、もう一方は、「物自体」の存在における根源を深く認識する

努力をすることによって、そこから産み出されるものに対する

あらゆる可能性をみて、具体化の方向性を模索していく、というプロセス。


これは、線形的な視点からみた一つの思考パターンなのです。


どういうことかというと、


現実と偶像を線で結び、どちらかの端点から始まる

プロセスを経て、着地点までもっていくということ。


線形的という意味では、どのグラデーションの位置で、
決めることにするのか、ということ。


それぞれの文脈によって、進み方は違うのかもしれないが

多くの場合は、どちらの一方向から進む場合が多いと感じるわけです。


そうすると、どんな結果が待つのか?


一方の視点からしか、思考することが出来ていないことによって、

その過程でいろんなものを見落としていく可能性がある。


重要な視点が抜け落ちる可能性を含んでいる、ということ。


知らず、知らずのうちに切り捨てている可能性も含んでいる。

そもそも、何かを「カタチにする」という行為が人為的に加わった時点で

本来のコアにあったものから分かりやすいようにいろんなものを

“切り捨てている”ということには変わりないということがいえる。


しかし、それでも少ない視点でしか思考を進めることが出来ていない場合。


より多くのことを知らず知らずのうちに切り捨ててしまっている、

ということになると思うのです。


排除していると言ってしまっても乱暴ではないかもしれない。


今回上げたような2元的思考は「排除の論理」とも言います。


思考、言葉、表現に対して乱暴に扱っている、ということ。


このようなことを、踏まえて、あらゆる可能性を捨てている、ということを

認識して思索を深めることが出来れば、今までより可能性が広がると思うのです。


なんだか、長くなったので、このへんで終わります。


ありがとうございました。


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恵比寿にある、インテリアショップ。

勘違い形而上学的デザイン学。~Swipe File~


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勘違い形而上学的デザイン学。~Swipe File~


海外のメジャーなインテリアブランドも多く取り扱っていて、

デザイン要素の強い家具が好みの人には、

購買意欲が刺激されるものが、たくさんあります。


取扱いブランドは、

「HALO」「GREENGATE」「emu」「AERO CONCEPT」「SELETTI」

「JC de CASTELEBAJAC」「ALESSI」など。

大阪のヴィンテージショップ。

勘違い形而上学的デザイン学。~Swipe File~


勘違い形而上学的デザイン学。~Swipe File~


木板を積層させることで環境が構築されている。


木の年輪を見て取れる断面を化粧部分とし

商材(個物)に同じものが無い、というメッセージがリンクさせらている。


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