霧 ここ何週間かは土日の天気が悪かったので山に行けなかったのですが、その間にも季節の花はどんどん移り変わってしまい、見逃してした季節の花もちらほら。
やっと雨から解放された休日に、そろそろササユリが咲いているだろうと繖山を山歩してみました。

安土考古学博物館などがある場所に駐車させてもらい、北腰越まで歩いていって今日の登山開始です。
博物館の後方の繖山で花を探しながらまずは山頂へ。そこから先は着いてから考えるという低山ならではの登り方です。

 

繖山は能登川町から安土町まで南北に延びる山なので登山口が多く、縦走するもよし、周回するもよしの山。
山には西国三十三所札所の観音正寺や六角氏の居城だった観音寺城、山麓には石馬山や教林坊、さらには古墳群もある信仰と歴史の山です。

 

登り始めてすぐの場所には石の鳥居があり、2躰の子授け地蔵が祀られている。
奥に祀られた傾いた石の祠の台座には「海上安全」と彫られており、かつては山麓近くまで迫っていたであろう琵琶湖の湖上安全の祠なのかもしれない。

 

 

繖山を登ったことのある方はご存じかと思いますが、この山の登山道は木段の登りが大半になります。
この日は薄っすらと雲がかかって直射日光にはさらされなかったものの、湿度が高いこともあって、木段を登って行くうちに汗が吹き出してきます。

 

木段を登りながら最初に見た花は、もう終わりを迎えているモチツツジの花でした。
何ヶ所かで見かけましたが、枯れかけた花が多かった中、この枝の花だけはまだ綺麗な状態で咲いていました。

 

分からない花はGoogleレンズで調べるのですが、同定の精度はどの程度なのでしょうか?
この花はタツナミソウの仲間のようですが、タツナミソウは種類が多いので正確には識別は出来ませんでした。

 

途中で蕾のササユリがありましたので、そろそろかと思ったらギリギリ花期に間に合ったササユリを発見!
以前にササユリの頃に繖山に来た時はこの辺りから上で何本かのササユリを確認出来ましたので期待は高まります。

 

別のルートから登って来られた方に会いましたので、ササユリについて聞いてみると...。
“毎年ならこの辺りから何本もササユリが見られるのだけど、盗掘されてしまってササユリが見られなくなった。”とのこと。
いきなり出鼻をくじかれてしまいましたが、道端のコアジサイに少し気持ちを癒してもらう。

 

ササユリの話を伺った方にツクバネがあるのを教えてもらうことが出来ました。

この落葉低木の実は正月の遊びの羽子板で撞く羽根に似ていることからツクバネの名が付いたそうです。
葉をひっくり返してみると十字の雌花があり、秋に実が付くと羽根つきの羽根そっくりの形になるそうですね。

 

そうこうしている間に繖山435mの山頂に到着。
二等三角点もあります。

 

 

山頂の横には沢山の花をつけた低木があり、これをGoogleレンズで調べてみるとシャリンバイの花のようでした。
シャリンバイはバラ科シャリンバイ属の常緑低木で、花が梅に似ることに由来するといい、ここにだけありましたのでもしかすると植栽されたのかもしれません。

 

山頂標識の後方のスギの木は真っ二つに割れています。
山頂におられた方から秋に落雷があって割れてしまったんだと教えて頂きました。

こんな低山でも落雷の被害があるということは、山で雷が聞えてきたら安全な場所を探して避難が必要ということです。

 

さて、山頂で休憩中の方とササユリの情報交換をすると...。
①これより1㌔ちょっと先に一輪だけササユリがある。
②周回コースでかなり傷んでいたが3輪確認した。
両方満たすとなるとかなりの距離と高低差があります。そこを踏まえて一方を選択。

 

下はこの日、唯一状態の良かったササユリです。

蕾のやつが開花する頃はおそらく雨。繖山のササユリはこれが今年の見納めになりそうです。

 

 

この記事の最初の方でタツナミソウの仲間と書きましたが、次の花もタツナミソウの仲間のようです。
葉の模様も花もかなり違いがありますので、違う花ではあるものの同定は出来ず。

 

細く長い枝の先に小さな花を付けているのは、うっかりすると見逃してしまいそうな花のユキノシタです。
花をよく見ると何とも可愛げのある花で、この妖精のような花は生薬として使われたり、春の山菜として食されるそうです。

 

 

繖山の早朝の時間帯にはウグイスやホトトギスの囀りが聞こえていて、季節は春から初夏へ。

下山した所にあった池ではヒツジグサが咲き誇っていて、夏の花の足音が聞こえてきています。

 

 

 

 

馬 月一くらいで高島市に行くことがあるのですが、その時に気晴らしがてらマキノ町の「メタセコイア並木」を通り抜けることがあります。
少し前からメタセコイヤ並木とマキノピックランドの間に変わったデザインの建築物が出来ていて何が出来るんだろうと不思議に思っていました。


実はこの建物は「メタセコイアと馬の森」という2025年4月19日(土) にグランドオープンしたばかりの施設で、"人と馬と大地" が共生する観光養老牧場だということです。

TCCという引退した競走馬が暮らす日常を人と共生して支える馬の支援の会社で、植えられている樹木が大きく育ってくれば森の自然と馬たちと過ごす安らぎの空間となることでしょう。

 

この牧場では引退した競走馬が何頭かと、小さな子供が乗る用のポニーが数頭いて、メタセコイヤ並木を並木馬車に乗ったり、乗馬をしたり、また厩舎でのエサやりなどをして馬と触れ合えます。
馬車は約25分間かけてメタセコイヤ並木の横を往復し、馬車を引っ張ってくれるのは“りんごちゃん”という馬。

 

メタセコイヤ並木では道の真ん中まで出て撮影したり、道に単車を並べて写真を撮ったりする人もいるにはいますが、昔と比べると随分とマナーが良くなったみたいです。
馬車が通るのはメタセコイヤ並木の右のクリ園との間の道で、乗馬の並木コースを申し込むと同じ道を馬に乗って往復出来ます。

 

並木の横で見ていると、遠くの方から馬の蹄のパッコパッコの音と共に馬車は段々と近づいてきます。
メタセコイヤ並木の横を馬車が通る光景を見るのと、馬車に乗って見る光景とどちらがいいでしょうね。

馬車に乗っていないので分かりませんが...。

 

「メタセコイアと馬の森」は観光の方で大変にぎわっていて馬車の順番待ちの時間も長そうでしたが、これからここは増々人気の観光スポットになりそうですね。
厩舎には有料で入るとニンジンをあげたり、体や頭を撫でたりることが出来ます。

 

「ネコビッチ」は2014年5月8日生まれの牡牛座の牝で戦績は国内21戦2勝!

 

「フルーキー」は2010年3月31日生まれの牡羊座の牝で、サラブレッドの平均寿命は25歳前後といいますからかなりの高齢の馬になります。
戦績は32戦7勝で、取引価格3150万円に対して総賞金は24836万円ですので結構稼いだサラブレッドになるのかな。

 

毛色が違うのは「マロン」で、2012年2月12日生まれの水瓶座の牡です。
エサの欲しい子は地面の干草を食べたり、窓から顔を出してニンジンをねだったりしますが、にゅーと顔を出されるとまさに「馬面」って言葉がぴったりします。

 

 

厩舎の間のスペースの真ん中あたりで片方の厩舎の馬にニンジンを与えていると、後ろの厩舎から顔を伸ばした馬にエサの催促で背中を突かれたりしてしまいます。
「ナリタシュウ」は2024年3月27日生まれの牡羊座の牡で戦績は国内2戦0勝。残念ながら賞金はなく、出走したのは2016年のみになります。

 

「メタセコイアと馬の森」はマキノピックランドの大きな駐車場に車を停めて、建屋に入った場所は無料エリアでカフェやお土産屋さんや受付があります。
無料エリアではポニーにエサやりが出来て触れ合うことが出来ますが、そこから先は有料エリアになります。


ところで牛みたいな模様のポニーが居たんだけど、こんな小さいやつなのに何度もいっぱしの馬のような嘶きをしています。

どうやらエサの催促だったようですが、もうニンジンは無くなってしまいましたよ。

 

 

 

 

 鎌刃城は、江北(京極・浅井)と江南(六角)の国境線に位置する境目の城で、標高384mの山頂にある山城です。
京極氏・浅井氏と六角氏の権力圏の境となることから、戦国時代には京極氏・浅井氏と六角氏の争奪の場となっていたという。

六角氏滅亡後は、浅井長政に属する堀氏が城主となりますが、堀氏が一族の樋口氏とともに織田信長に与するようになると浅井軍に対する信長軍の最前線基地となったようです。
信長が美濃と近江を平定後の1574年(天正2年)、城主の堀秀村は改易となりその後廃城となったとされます。



鎌刃城は山頂部に南北・東西ともに約400mにもおよぶ郭を配しており、湖北最大級の山城だったといい、実際に歩いてみてもかなりの広さを感じました。
城は、主郭から西・南・北に延びる切り立った尾根筋に沿って郭を配しており、城跡へ行くとどこから攻めたらよいかなど考えてしまいますが、鎌刃城は攻めにくそうな山城だなぁというのが感想です。




城の南側は「七ヶ所の堀切」で防御されており、急登をロープを使って登って下りてを繰り返すことになるため、上級者向けコースとありましたので今回は迂回道を通ることにした。
今は迂回道が造られているが、当時は切り立った尾根筋を進み途中に七つの堀切があるようなのでこちらからの侵入は困難に思えます。



迂回道から尾根筋(七ヶ所の堀切)を見ると登るのも困難そうな急登で、かつては迂回道はなかったはずなので、ここからさらに下まで切り立った斜面は続きます。
斜面に植林されたスギの木が下部で曲がっているのは、この地の雪の多さが想像できます。



「七ヶ所の堀切」からの迂回道が終わると「主郭」や「副郭」への登り口があり、ここから城の核心部に入ります。
ここまでは単調な迂回道歩きでしたが、ここからがいよいよ城跡歩きになります。



「副郭」の最南端まで来ると「七ヶ所の堀切」の終点が確認出来ます。
この尾根筋はまさに“鎌の刃”のような切り立った道で、途中に堀切が七ヶ所掘られているようなので無理して行かなかったのは正解でした。



主郭の南側には「石塁」が確認でき、この高まった部分は以前は土塁と考えられていたよう
ですが、調査によって石塁であることが分かったといいます。
別の曲輪にも石塁の跡らしいものや、石塁や石垣に使われていたような岩が無造作に転がっている場所もあり、当時の最先端の城だったともいえます。



主郭にある「主郭虎口」は城跡の最大の見所のひとつで、主郭の周囲が石垣によって囲まれていてこの虎口があったと考えられています。
鎌刃城は、信長・秀吉以前の京極氏と六角氏が戦った時代の城とは思えないような当時の先駆的な城だったことが伺われます。



北の曲輪には「桝形虎口」が残されており、門の礎石から四脚門が構えられていたと考えられています。
門の跡は約5m90cm(3間)四方の規模があり、位置的に城の大手門に相当すると考えられているそうです。



曲輪跡は平坦地が堀切を挟んで北の曲輪の最北部まで続いており、その先には「北の大堀切」と呼ばれる4つの堀切が続くようです。
曲輪にはかつての城の水源を確保した「水の手」や「物見櫓」など再現されたものがありました。



北の曲輪の西面には「大石垣」が残されていると書かれてありましたので、斜面を下っていき大石垣まで行きます。
「大石垣」は高さ4m・長さ30mに及びますが、構築理由は上方の郭群が斜面崩壊によって機能停止するのを防ぐため構築されたと考えられているそうです。



北の曲輪の最北端には丸太を組んで作られた展望台があり、ここからは北東の風景が一望できます。
やや足元が不安定だが造りはしっかりとしているので踏み抜いたりすることはなさそうでした。



前方にある低山は太尾山、平野部は米原の市街地でしょうか。
右に見える伊吹山は1377mの山とはいえ、大きく雄大さを感じます。
土砂崩れによって崩壊した伊吹山の登山道は、来年度から10年間かけて復旧治山事業が開始されるそうで数年間は登ることは出来ないとのこと...。



鎌刃城の西の曲輪には竪堀が連続する「西曲輪の畝状竪堀群」などがあるようなのですが、かなりの急登続きということで行くのを断念します。
城跡を最南端まで戻り城跡を出て分岐を下っていくと、水音がどんどんと大きくなって「青龍の滝」が見えてきます。



「青龍の滝」は霊仙山系の湧水が年中枯れることなく高さ8mを流れ落ち、古くから信仰・修行の場として守られてきたといいます。
また、滝口には鎌刃城の城内に生活用水を引いていた導水施設の一部が残り、水を堰き止めて流し込んだ溝(取水口)が確認できます。(写真右の上側)



「青龍の滝」を訪れるのは3年振りですが、不動明王や龍神を祀る修行の滝であること、朱色の鳥居があることで非常にスピリチュアルなものを感じます。
初めて訪れた時は緊張するような怖さがありましたが、今回は行き方や距離もおおよそ分かっていたので怖さは感じないものの、ピリッと引き締まった空気感は感じます。



「青龍の滝」は直瀑のこの滝を含め10個以上の滝で構成されているそうで、この滝の次にある下側の滝は確認出来たものの、滝沿いに降りるのは不可能なのでそれ以上は未確認になります。
7月頃に行われる「青龍の滝まつり」では滝行体験が出来るようで、この滝は蛇や不動明王を祀り商売繁盛や火除けの御利益があるといいます。



滝は水量が豊富で何より水が綺麗な清流になっています。
この場所から山伝いの東側には醒ヶ井養鱒場がありますので水は霊仙山系の賜りものです。



鎌刃城址はクマやヤマビルが出現するとされる場所で、滑落事故も発生している場所です。
行ったのは晴れ日の昼間で、他に登城されている方がおられたのでクマは心配なさそうであり、ヤマビルも見かけませんでした。
ただ予想以上に城域は広く、険しい堀切や虎口などが残る戦国初期の乱世を伝える貴重な山城だったといえます。