ぁー。ごめんなさい。時間が無いので、久々の更新ですよ。フフフ。
今日は、少々哲学について語ってみようかと。
っていうか、アレですね、自己紹介の欄に書いてない様な小難しい記事ばっかり書いてる気しますよ。
一応音楽ブログに属してるんですよね・・・ココ。
音楽目当てに辿りついた人はゴメンナサイね。ホント。
まぁ、たまには良いじゃん、こういうのも。っていうかどうせ今、読者0人だしさ。
さて、哲学などと言っても「何言っとるか分かれへんはボケが!」とか言われるのが怖いので分かりやすく。
まず、テーマは「死。」うわぁ、重たいね。凄い重たいね。
そもそも、「死」というのは、終わりのイメージや、負のイメージが付きやすい言葉だ。
だが同時に、「生」と言うか、正のイメージがあるのも確かだ。
例えば、「黄泉がえり」と言う映画を皆さんご存知のはず。
アレは、死んだ人々が2週間と言う限定期間で帰って来る、というものだ。
そう。世の人々は、深層部分では死を迎えてしまった人達を不から正のイメージに作り変えて、
心の何処かで、死んだ後も蘇る事が出来る、という生のイメージに切り替えている。
しかし、こういった「死人が蘇る」コンセプトの映画や本は一種の共通事項が存在する。
それは「期間が限定されている」という事である。
「黄泉がえり」なら2週間、「今、あいにゆきます」なら梅雨の時期。
などなど。どれも期間が一定なのである。
決して永遠ではなく、一生の内のわずかな時間。断片。その間だけ再び現世する事が出来る。
つまり、人々は、一度は切り替えた正のイメージを、再び悲しい負のイメージに戻しているのである。
それはある意味、世の中の異常者の増加を防ぐ為なのかも知れない。
人が生き返って永遠に現界すれば、それは死者の復活。
昔の黒魔術と変わらない。
だが、そうやって負のイメージに戻した「死」のイメージを。人は更に再び、「生」のイメージに戻すのである。
それが宗教の世界。特にキリスト教と仏教等である。
どちらも、死んだ後の世界が存在し、現世で善行を行っていれば天国という名の楽園へ。
悪行を行っていれば地獄という名の拷問世界へ。
つまり、死後にまで自分は「生きる」という意志が存在するのである。
そもそも、天国や地獄が存在するかどうか、誰も知りはしない。
臨死体験をした、という人も聞くが、どの人も大抵決まって見る景色は三途の川と、同じ場所である。
もしそこが本当に死後の世界であるならば、どんな人であれその世界を見るはずである。
しかし、ヨーロッパの人々はそんな景色を見てはいない。
やはり、その世界は人々が自分の中に作り出した幻想や理想を垣間見ているだけなのかもしれない。
誰しも死ぬのは嫌である、それなら何故、自殺が存在するのか。
それはやはり、死より嫌なモノ、とその人の中でランクを決めてしまったからであろう。
本来、普通の人なら、されて嫌な行為の最上級は恐らく、「殺される」、または「死なされる」だろう。
だが、この世に自殺をする人は絶えない。何故ならその人の中でこのランキングが逆転してしまっているのである。
殺される、死なされると言った行為がその座を退いてしまい。
代わりに、今起こっている現実が代等する。それによって、「死んだ方がマシ」となってしまうのだ。
無論、このランキングは簡単には揺るがないが、精神状態の緊迫状態により、容易にそのストッパーが外れてしまうのである。
ぁー。とりあえずこんなもんです。よし!スッキリした!
こういう時ブログって良いですよね。自由に書けて。スッキリ出来て。
まぁ、こんな自分勝手なブログ、誰も見やしませんが!!へへっ!
それでは!ノシ