ご無沙汰しております。


この度、「心の窓」から「木漏れ日」というタイトルに変えることにしました。

現在私は、心理カウンセリングを行っていますが、屋号を「心の窓」にしております。

それでこちらのブログのタイトルは変えた方がいいな、と思い、変更することにしました。

この「木漏れ日」も皆さまから愛してもらえると嬉しいなぁ~、と思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。(微笑)


さて、今日のお話しは、「父の死」であります。

ずっとバタバタしておりまして、まだまだ落ち着かない状態ではありますが、少しここで気持ちを吐露したくなって書いております。


4月12日、父が他界いたしました。

最終的な病名は、急性骨髄性白血病でありました。

去年の11月から4ヶ月間、がんセンターに入院をしておりましたが、治療の施しようがないということで、今年の2月いっぱいで退院をし、その後は自宅療養というかたちで、家に帰って来ておりました。


しばらくは、見た目には元気に過ごしていたのですが、3月の最終週の頃には、痛みを訴えるようになり、自宅療養をするにあたって、家の近所の病院にお世話になる手配ができていましたので、そちらの病院で痛みを取ってもらうようにして、父が入院をしたいと言い出したので、4月4日から入院生活を始めました。

それから9日間の命で終わってしまいました。

早かったなぁ~、あっという間でした。


本人もまだ生きるつもりでいましたので、遺書を残すことや、自分の死後に家族にやってもらいたいことなどがあったようですが、結局は何もできないままに逝ってしまいました。

父が生前、ちょこちょこと言い残していたことを思い出しながら、できるだけ、父の要望に添うように葬祭を執り行いました。


実際に父を亡くして、存在することの意味と存在しないことの意味がよく分かった気がしています。

その違いはとても大きいものだと感じています。


ただ、幸か不幸か、人は、慣れていけるんですよね。

時間が経つと、今まで存在していた人が、存在しなくなってしまったことに慣れてしまいます。


それこそ私の場合、幸か不幸か、父との関係は親密ではなかったので、父を亡くしての絶望感や寂寥感はそんなに感じずに済みました。

父の死後も、現実を淡々と受け止めることができ、淡々と物事を運ぶことができていると思います。

これが、とても仲の良い親子関係だと、後を追いたいような気持や、ずっと泣いて生活しないといけないような感じになるのだと思います。


これからの私の人生には、どんなことが待ち受けているのか、まったく分かりませんが、私も父同様に、寿命を全うするまでちゃんと生きないといけないな、と思っています。


お父さん、大変な闘病生活で、とてもきつい思いをしたと思います。

辛かったね。

今は、天国で楽しくしてるかな。

お爺ちゃん、お婆ちゃんと会えてるかな。


お疲れさまでした。

ゆっくり休んでね。


79年間の人生を全うした父です。

最期まで一生懸命生きた父を想いながら、ここで終わりにします。